第57話 雨の導き

 果たして深月がピットに戻ってきたころには一転にわかにかき曇り、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。だが、どこのチームもこれが本降りの雨になるとは予想しておらず、この降雨の状況を様子見していた。

 そこを、レインタイヤに履き替えた千隼のマシンが猛然と飛び出していったのだから、各チームとも仰天する。そして、それから3周もしないうちに、降り注ぐ雨粒は次第に音を立てるほどの強さに変わる。雨はこれまでにない強雨の様相を呈し始めた。ここにきてようやく「ウエット宣言」が出され、各チームは慌てふためいて次々にマシンを急遽ピットインさせ、レインタイヤに履き替える。このタイムロスは大きく響いた。コース全体が雨に打たれ、水煙が立ち上る中、既にタイヤ交換を済ませていた千隼の58号車は涼しい顔で着実にトップを独走する。


 思えばここ二年、千隼にとって雨は常に良い兆しであった。はじめてさとみと会った時も、さとみに告白して受け入れられた時も、GTへの転向を決意した時も雨が降っていた。まるで雨に導かれていたかのように。千隼は雨に祈る。どうか優勝させて下さい。そのためにあたしは死力を尽くします、と。左腕はそれに応えるように鈍く疼いた。


 だが残り十五分を切った頃だろうか、背後に迫るマシンがあった。バレットレーシングの71号車、檀野哲二のマシンである。檀野は鬼気迫る表情で千隼を追う。どうやってこの強雨を予見したのか、そんな小賢しい手で優勝を掴もうとするなど彼にとっては許しがたい行為だった。必ずVRMの、千隼の58号車を捉えてこの手でねじ伏せてやらないと気が済まない。側面にハヤブサのプリントがされたオリオンDSR-GT3Rを目指し、檀野のマシンは正に弾丸となって、水柱をあげながら千隼の58号車のスリップストリームに入る。真後ろからしきりにパッシングをしてあおる。左右から揺さぶりをかけ、どこからでも抜けると激しくアピールをする。

 ここで熱くなった方が負けだ。千隼は息を整えわずかなハンドル操作に集中する。追走され焦る気持ちを制御し、檀野のマシンを冷静に抑え込む。ほんの数周ではあるが千隼の方が古いタイヤを履いている。だが、さしたるバトルもなく、また千隼の巧みなタイヤマネジメントもあって、タイヤの消耗は最低限に抑えられていた。一方で檀野は激しいデッドヒートでタイヤをすり減らし限界も近い。檀野が焦れて挑発を繰り返す一方で、千隼はむしろ落ち着きを崩さずしっかりと檀野の行く手を阻んでいた。各マシンが水煙を上げライトを照らしながら走り続けていく様を観客は固唾を飲んで見守る。

 檀野は高速コーナー「R110」で勝負をかけた。イン側から強引に割り込んでいく。千隼は檀野のコースを消す様にイン側に寄せるが、檀野はそこをさらに強引に割り込んで千隼のオリオンDSR-GT3Rと接触しゴツゴツと不穏な音を立てる。檀野は千隼をアウト側へと押し出そうとしていた。危険を感じた千隼がイン側を開けると、檀野の71号車は千隼のマシンをオーバーテイクし、千隼の58号車のフロントガラスにしぶきを叩きつけ走り去っていく。千隼はらしくない悪態をついて71号車を追う。ライトニングフォーミュラの頃からウエットコンディションに強いと定評のあった千隼はたちまち71号車に追いついた。激しくプレッシャーをかける。攻守が逆転したまま残り十分を切ろうとしていた。このままでは終わらせない。絶対に檀野を抜き去って、あの余裕に満ちた顔を悔しさで歪ませてやりたい。千隼の闘志が燃え盛ってくる。

 その時無線が入った。さとみからだった。


「審議に入ったって!」


「審議?」


「さっきのR110での71号車の走りよきっと!」


 スチュワードの対応は早かった。R110で千隼をパスした檀野の走行は危険行為とみなされ、次の周回で「D71」のペナルティボードが掲示される。ドライブスルーペナルティの表示だ。だが、千隼は自分の力で檀野をオーバーテイクしたかった。そうしなくてはならなかった。決意を燃やし慎重にアクセルを踏む。

 檀野はペナルティを食らったことで、自分でも気づかないほどわずかにいら立ち動揺し、平常心を失っていた。千隼がその心のすきを突いたのはやはり「R110」だった。その瞬間、千隼は時間が止まったかのような静寂の世界にいた。ハンドルを握る手の感覚、マシンが微細な振動を腕と全身に伝えてくれる。体のすべてがマシンと一体化しマシンが手足のように動く。やるべきことはただ一つ、目前の檀野を超えること。

 アウト側からプレッシャーをかける。そのフェイントに釣られてほんの少しアウト側にふくらんだ71号車をきれいにインから抜き去った。

 VRMのガレージから今日一番の歓声が上がる。

 檀野にはもう余裕と呼べるようなものはなかった。彼は怒りでステアリングを握る手を震わせる。焦燥感が心臓を締め付け、勝利が自らの手から滑り落ちていく感覚に苛まれた。この周回でドライブスルーに応じないと、更なるペナルティを課せられる。71号車はペナルティボードに従うしかなかった。止むなくピットレーンに入り四位に後退した。ピットレーンを走行中の檀野の口には鉛のような苦い味が広がり、敗北の重しが心に圧し掛かる。


 残り三周は千隼の独壇場だった。雨の中、弾丸の追走をかわしたハヤブサはトップを飛翔する。雨に滑るコースを見事に駆け抜け、無駄のないライン取りで他のマシンとの差を広げ、周回遅れを悠々とパスしていく。観客もピットもその走りに歓声を上げる。悲劇と歓喜のジェットコースターに観客は狂喜した。


▼用語


※ パッシング

前を行く車に向けてライトを点滅させたりハイビームとロービームを繰り返したりする行為。周回遅れや明らかに低速な車両に対する、妥当性のある追い抜き宣言であれば問題はないが、過度なパッシングによる先行車の威圧や煽り行為とみなされれば、「危険なドライブ行為」「反スポーツ的行為」などとして処罰の対象となることもある。


※ 審議

危険行為や違反行為があった件について、スチュワード(後述)が該当車両に対し、ペナルティの有無と具体的なペナルティ内容について検討に入ったことを意味する。


※ スチュワード

レースの競技規則を適切に運用するための「審判」。インシデント(危険行為、違反行為)があれば、映像証拠、テレメトリー、無線の内容などからそれを客観的に判断し、ペナルティーの有無とその重さを決定する権限を持つ。


※ ペナルティーボード

レース中、ペナルティが発生した場合に掲示されるボード。「D71」とは71号車に「ドライブスルーペナルティ」を課したことを意味する。万が一見逃してもいいように、ペナルティボード以外にもチームの無線でもペナルティについて指示されるのが一般的。


※ ドライブスルーペナルティ

これを課された車両はピットレーンを通過しなくてはならない。ピットに停車する必要はない。それでもこのレースだと、ピットレーン内の制限速度は、時速六十キロメートルと低速なので大きなタイムロスになる。


※ ピットレーン

各チームのピットが並ぶエリアとコースを繋ぐ通路。車両が走行するファストレーンと実際にピット作業が行われるインナーレーンに分かれる。ファストレーンの幅は最大で三.五メートルと定められている。


【次回】

第58話 勝利の女神

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