第58話 勝利の女神
残り三周。千隼は自分のマシンに集中し、目の前に広がるウェットなコースを確実に攻めていった。先ほどの檀野との息詰まる接戦で心拍数は上がっていたが、呼吸を整え、冷静さを取り戻す。タイヤはもう気にしなくてもいい。ペースを保ちながらも、気を緩めることなく次のコーナーへと突入する。エンジン音や風切り音に加え、雨が叩きつける音と、タイヤが水をかき分ける音が響く。ほんの一瞬の気の緩みが命取りになる。その瞬間を見逃さないよう、目を凝らす。
ODS-7E1水平対向6気筒エンジンの咆哮が雨音と混じり合い、サーキットを駆け抜ける。VRMの大胆なレインタイヤ換装という奇策が、ここまで功を奏するとは誰も予想していなかった。この予期せぬ展開に、観客席では驚きの声が次々と上がり、騒然となっていた。VRMのガレージは歓喜に包まれている。予言の的中した綾は小躍りして自慢げに喜ぶ。さとみはモニターに映る千隼のマシンをじっと見つめ、心の中で彼女を応援していた。心の中で繰り返し千隼の勝利を祈る。千隼もまた、同じことを信じていた。もう七年前のような事はない。今度こそしくじらない。いつの間にか左腕の疼きも痺れも鎮まり、再び体のすべてがマシンと一体化していく感覚を覚える。自分はサーキットを駆けるために生まれてきた、と改めて確信した。
残り二周。すべてのマシンを背後に従え、檀野は四位に後退している。もう千隼に追いつける者はいなかった。前方には周回遅れのマシンが見えるだけだ。ガレージからの無線で、バシル・チームマネージャーの冷静な声が入る。
「チハヤ、そのまま落ち着いて走れ。もう追い込まなくていい」
千隼は微笑んだ。この声を聞いて初めて、勝利への実感が少しずつ胸に広がり始めた。しかし、それでも油断はしない。最後まで集中すること。それが、ファイナルラップで勝利がその手から滑り落ちた経験から得た彼女の哲学だった。
ファイナルラップ。観客の歓声が一段と高まり、VRMのガレージでも拍手が鳴り響きこだまする。千隼のオリオンDSR-GT3Rは時速二百五十キロを優に超える機械仕掛けのハヤブサとなってコースを力強く走り抜け、フィニッシュラインに向かって飛翔する。その瞬間、雨が小降りになり力強い陽が差してくる。千隼の視界に、輝くチェッカーフラッグが大きくはためいた。
千隼はアクセルをゆっくりと戻し、フィニッシュラインを通過した。優勝だ。優勝したんだ。千隼の胸に、目に、熱いものがこみ上げてくる。唇が震え声が出ない。
VRMのピットは大歓声に包まれ、さとみや綾、深月が涙を浮かべて喜んでいる。バシルも狭川代表も珍しく微笑みながら、千隼の走りを称賛していた。千隼はようやく無線で静かに言った。
「あたし、勝った……」
言葉が詰まる。震える声で続ける。
「勝ったんだ……」
涙が頬を伝った。これまでの努力が報われた瞬間だった。静かに勝利を噛みしめる。胸の中に、少しずつ熱いものが広がっていく。目の前の景色が、ゆっくりと涙でぼやけていく。
ウィニングランのあと千隼はピットに戻り、仲間たちに囲まれて祝福された。綾が飛びつくように抱きつき、深月も感動で言葉を失っている。さとみはドリンクボトルを渡しながら、微笑んでいた。
「ちーちゃん、ついに優勝ね」
「ありがとう、これもみんなのおかげ」
千隼はそう言って、さとみをしっかりと抱きしめた。そして仲間たちと一緒に勝利を祝う。チーム一丸となって戦い抜いたこのレース。勝利は、彼女一人で掴んだものじゃない。VRMのチーム全員の力が結集して勝ち得たものだ。一人孤独に走るライトニングフォーミュラと違って、三人のドライバーが助け合う言わば「団体戦」で勝利を掴むのも特別な連帯感や充実感がある。千隼はその喜びをかみしめていた。
メディアが千隼に群がりいくつものマイクが差し出される。カメラの砲列にさらされる。久々に見るその光景に圧倒された千隼は、興奮と緊張でしどろもどろに答えることすらままならない。彼女の目は常にクルーたちや歓声を交わす仲間たちに向けられていた。興奮した綾と深月も目に涙を浮かべながら歓声を上げ、檜葉らメカニックは何度も万歳三唱をする。「ね! ね! 私の言った通りだったでしょ!」綾の得意げな声が響く。千隼も何度も興奮しているさとみと抱き合う。さとみは、千隼の背中にそっと腕を回した。千隼の勝利がまるで自分のことのように胸が熱くなる。千隼がここまでたどり着くために費やしてきた時間と努力を、ずっとそばで見守ってきたからこそ、この瞬間がどれほど特別なものか、痛いほどよくわかる。狭川代表とバシル・チームマネージャーでさえ笑顔を浮かべていた。チーム全員が熱い勝利に酔いしれていた。
千隼と綾と深月が誇らしげにパルクフェルメから表彰台に向かう途中で、千隼はふと足を止め、陽が射しつつあるサーキットを見渡した。勝利の歓声、称賛の声、仲間たちの笑顔――すべてが、彼女を包み込んでいた。その景色をじっくりその目に焼き付ける。その時檀野が姿を見せ、千隼に近づいてきた。
「やるじゃねえか、星埜千隼。悔しいね。一体どんな魔法を使った」
檀野は手を差し出し、千隼もそれに応えた。
「うちには可愛い予言者がいるんで」
その言葉に顔を赤らめて照れる綾。
「だがあの走りは本物だったな。大したもんだ。驚いたぜ」
だが檀野の表情には以前の余裕や軽蔑はなく、純粋に千隼を称賛するものだった。千隼は静かに微笑んで、檀野と握手を交わした。
「ありがとうございます」
檀野は屈託のない笑顔を向ける。共に競い合うレーサー同士でなければ交わせない笑顔だった。
「次は勝つから覚悟しとけよ」
「楽しみにしています」
固く手を握り締めあう。
こうして、霧早野十二時間耐久レースは幕を閉じた。雨に導かれた勝利だった。表彰台に向かう途中、千隼はふと立ち止まり、深呼吸をした。歓声に包まれたガレージが、少しずつ静かになっていく。次に訪れる戦いへの準備が、彼女の心の中で既にもう静かに始まっていた。
▼用語
※ チェッカーフラッグ
レースの終了を知らせる市松模様の旗。
※ ウィニングラン
レース終了後に行われる周回。観客へのアピールや感謝の意の表明、クールダウンや、ドライバー自身が勝利を噛みしめるための走行。
【次回】
再生編
第59話 転落の予兆
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