再生編
第59話 転落の予兆
表彰台の一番高い場所に立った千隼、綾、深月は、優勝トロフィーを受け取る瞬間を待っていた。誰よりも高い、ここからの景色は最高だった。胸には誇らしさと喜びが溢れ、観客の歓声と称賛の声が、彼女の耳に心地よく響く。千隼たちを見上げるさとみと仲間たちの祝福の声、輝くフラッシュ、そして雨上がりの澄んだ空気。なにもかもが完璧だった。
アナウンスが響き、トロフィーが千隼の手に渡された。その瞬間、左腕に違和感が走る。思わずトロフィーを取り落としそうになり、千隼は慌てて右手で支えた。ほんの一瞬のことだったが、左腕から力が抜けるのを感じた。まるで、勝利の瞬間が、現実にこの左手からすり抜けていくかのように。会場は歓声に包まれているが、彼女の胸には小さな不安が
一瞬とはいえ、左腕の力が突然失われたことに千隼はかすかに動揺した。無意識に腕をさすり、その場をやり過ごしたが、何か妙な感覚がする。再接合の後遺症なのか、それとも別の原因なのか。頭の中で様々な考えが巡る。だがいずれにせよ、今この場でそれを深く考える時間も余裕もなかった。
不安を無理矢理心の隅に追いやった後の、表彰式とシャンパンファイトの喜びも最高だった。千隼は綾や深月とはしゃぎまわって終わり、表彰台にやってきたバシル・チームマネージャーだけでなく、眼下のさとみやスタッフたちにも、シャンパンの雨を降らせる。
晴れ晴れとした表情で綾と深月と共に再びガレージに戻る。ガレージには勝利の熱気と過酷なレースからくる気だるさに満ちていた。ゆっくりと撤収作業が進んでいる。
千隼はさとみの姿に気づいた。彼女は大きなヘッドフォンをしたまま、モニターに視線を向けて今日のダイジェストを眺めている。千隼は不思議に思った。レースも終わったのに、なぜヘッドフォンをつけたままなのか。
「さとみ、どうしたの?」
千隼が声をかける。
しかし、さとみは反応しない。何度か呼びかけるが、まったく気づかない。
「さとみ?」
不安を感じた千隼は、彼女の肩を軽く叩き、ヘッドフォンを無理やり外した。
その瞬間、千隼は言葉を失う。ヘッドフォンの下には、肌色を模したというにはあまりに拙いライトブラウンの小さな補聴器が装着されていた。
「さとみ…… これ……」
千隼は驚きと動揺で声を震わせた。
さとみは一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐに少し青ざめた顔で気まずそうに笑った。
「あ…… ご、ごめんね、ちーちゃん。今まで言えなくて……」
「……なんで? こんな大事なこと、なんで隠してたの?」
千隼は信じられなかった。さとみが補聴器をつけているということは、耳に何か重大なことがあったに違いない。それを今まで一度も知らされていなかったことに、ショックが隠せなかった。綾や深月、それに周囲のスタッフもこの様子に気付き動揺が広がる。
さとみは少し困ったように視線を落とし、ため息をついた。
「実は去年くらいから、少しずつ聞こえにくくなってきてて…… それが最近酷くてとうとう補聴器をつけちゃった。でも、大丈夫。補聴器をつけてれば普通に聞こえるし、あんまり大げさにしたくなかったの」
「でも、どうして……? なんであたしに言ってくれなかったんだ……」
千隼は何か胸の奥が締め付けられるような思いに襲われた。
「ちーちゃんには心配かけたくなかったから。ほら、ちーちゃんはレースに集中しなきゃいけないでしょ? 余計なことで気を使わせたくなかったの……」
さとみは、ほんの一瞬、千隼に対して申し訳なさそうな顔を見せた。どうして言えなかったのか、自分でもよくわからないが、今の自分にはそれをうまく言葉にできなかった。「余計なことで気を使わせたくなかった」という言葉で、自分自身をも慰めていたのかもしれない。さとみは微笑みながら、千隼の肩に軽く手を置く。
「余計な…… こと……」
しかし、その微笑みが逆に千隼の胸を突き刺す。こんな大事なことを知らずに自分は一人身勝手に走り続けていたのか、という思いが頭をよぎった。千隼は不安に包まれた。その微笑みの裏側に、何か大きなものが隠されているような気がしてならなかった。自分の知らないところで、さとみがどれほどの苦しみを抱えてきたのか、想像するだけで胸が苦しくなる。
「さとみ……ごめん。あたし、全然気づけてなかった」
千隼は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。うなだれる様にしてさとみを見下ろす。
「気にしないで。ちーちゃんは今まで通り、走り続けてくれればそれでいいんだもの」
さとみはそう言って笑顔を見せたが、千隼の胸の中には消えない違和感が残った。
左腕の不安、さとみの耳の問題。千隼の周囲は、ほんの僅かずつだが何かが崩れ始めているかのように思えた。それでも、今はまだその全貌を見通すことができなかった。
【次回】
第60話 揺らぐ信頼
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