第60話 揺らぐ信頼
さとみの言葉が心に刺さったまま、勝利の余韻を残す撤収中のガレージの隅で、千隼は一人考え込んでいた。補聴器のこと、そして何も言わずに隠していたこと。それが、千隼の中で次第に不信感へと変わっていった。一体どうして自分を頼ってくれなかったんだろうか、と。
さとみは、常に千隼を支えてくれる存在であった。だからこそ、何でも共有していると思っていた。だけど、補聴器のことを黙っていたことが、千隼にとっては裏切りのように感じられてきた。このさとみの隠し事や裏切りに、二人の関係にひびが入ったのを感じずにはいられない。
レース後、二人の間は次第にぎくしゃくしたものになり、かわす言葉も減っていった。さとみは自分に完全に心を開いていない、そう思うと自然と千隼の顔から笑顔が消えていく。さとみの聴力への心配以上に、さとみから信頼されていない自分に嫌気が差す。自分は、さとみの支えであり、唯一無二の存在だと思っていた。それなのに、どうして何も相談もしてくれなかったのか。まるで、自分に対する信頼が失われたように感じ、それが千隼の胸に重くのしかかっていた。
さとみは努めて明るくふるまおうとしたが、千隼の無言で何かに打ち負かされたかのような表情を見ると、次第にかける言葉も減っていった。
優勝トロフィーは「季節料理 鷹花」の急ごしらえの吊り棚に鎮座した。だが二人の表情は冴えない。さとみの耳のこと、そして千隼が感じたあの左腕の違和感が、千隼に手放しで喜ぶことを決して許さなかった。
第八戦まであと一ヶ月半と、少し余裕のある時期だった。夏真っ盛りの夜。補聴器を外して布団に寝そべっているさとみは、タオルケットをかぶってノートに何やら書き込んでいる。その隣には千隼が横になってスマートフォンで次のF1スケジュールを検索していた。これまでピッタリとくっつく様にしていた二人の距離が、わずかに開いているように見えるのは何も夏の暑さのせいばかりではなかった。さとみの傍らにある補聴器のケースを見るだけで、千隼は悔しくて涙が出そうになった。
いつもなら、何気ない言葉を滑らかに交わしていた二人の間に、少しずつ沈黙が生まれた。さとみが話しかけるたび、千隼は短い返事を返すだけ。まるで、二人の間に見えない壁ができたかのようだった。
「ねえちーちゃん。今度の新メニューなんだけど」
「……」
「ねえ、ちーちゃん」
「うん……」
「今度、なめろうとさんが焼きもやってみようかと思って」
「……」
「それとも、貝焼きの方がいいかな?」
「……どっちもいいんじゃないかな」
「そう? 良かった。じゃ、ちょっと作ってみるから試食お願いね」
「いや、いいよ」
「どうして?」
「さとみ一人で充分できるでしょ。あたしは別に……」
「別にって……」
「頼りにならないからさ」
「えっ、そんな。頼りにしてるよ、すっごく」
「いや、それはない」
「どうして?」
「だって……」
千隼はようやくスマホから目を離しさとみの方を見た。
「耳のことだって何の相談もなかった……」
「それは……」
さとみの顔が曇る。
「だってそれはちーちゃんのレースの邪魔をしちゃ——」
「そんなことない。邪魔になんかならない。むしろ何の相談もなく一人で勝手に何もかも決められた方がよっぽど嫌だ」
「ちーちゃん……」
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
千隼がさとみに背を向けて身を横たえると、さとみは枕元に置かれている二人で買ったライムグリーンのライトを消した。これを買った頃の少しはしゃぎ気味なくらいだった二人を思い出し、言葉にならない惨めな気持ちがさとみの心に広がっていく。
さとみには、自分のせいで千隼の夢が壊れるのではないかという不安が、ずっと心の中にあった。千隼に余計な心配をさせたくない。そんな思いが、言葉を封じ込めたのだ。しかし今、千隼の顔を見て、改めて自分がどれほど彼女を傷つけてしまったのかに気づき、胸が締め付けられた。
二人の間には小さくとも深い溝が生まれたような気がする。それもこれも自分のせい。さとみはそう思うとなかなか寝付く事が出来なかった。
【次回】
第61話 遥歌の不満、千隼の鬱憤、さとみの不安
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます