第38話 深夜、千隼と綾
「どうしたんですか、こんなところで」
「うん……」
声をかける綾に千隼は心ここにあらずと言った風で画面を眺めている。両手を組んで背伸びして反っくり返る。
「うーん、プログラムを見てたんだけど、ちょっとあたしが見てたのと違うから、難しいね」
「プログラムが読めるんですか!」
「しー」
千隼はすやすや寝息を立てているさとみを見、それから綾に目配せして唇に指を立てた。
「ヨーロッパF3とライトニングフォーミュラ時代に、メカニックやECU知識の基礎の基礎を教わったんだ。自分の車のセッティングやパフォーマンスの最適化に役立てるためにね」
「それでC言語も読めるようになったっていうんですか」
「まあ少しだけ。テスト走行やフリー走行でエンジニアたちと作業して、ECUの設定やトラブルシューティングをするうち自然とC言語に触れる機会も増えて行ったんだ」
「すごいなあ」
「そうかな?」
「でも……」
綾の口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「私にはかなわないと思うなっ」
「えっ?」
綾は驚く千隼の隣にパイプ椅子をがたがたと広げてどかっと座る。
「私IT専門学校行ってたんです」
その声はどこか得意げだ。
「そうなの……」
「そうなんです。で、実際どんな感じですか?」
「うーん、まだなんとも…… 結構、いやすっごく難しくて」
「ちょっと見せてください」
「ああ…… うん、二時まで頑張ろう」
「そうですね」
二人の距離が近い。だが千隼はそれにも気づかず綾とモニターを眺め続けた。さとみが深い眠りについている今、ここにいるのは実質千隼と綾だけのようにも見える。綾はこの時間を大切にしたいと思った。やがて額を寄せ合う二人の肩がくっつく。千隼はそれを気にもとめず、延々とプログラムをスクロールさせ、綾と意見交換を続けていた。と言うより綾からプログラムについて教わっていたという方が正しかった。一方で綾は胸を高鳴らせながら千隼の感触を胸に刻み込んでいた。
「でもECUのバグなんて本当にあり得るんですかね」
「他にはもう考えられない。このエンジンは日本に戻って来るまでは好調だった。海外と日本。そこでの唯一の違いはこのECUだ。日本に戻ってきてからすぐ、軽微な不具合を修正したバージョンアップ版と交換をしただろう」
「ああ、それがこのタイプ
「そう。それにメカニックの
「ちょっと変わってますけどね」
「確かに」
「ふふっ」
「なんだかちょっとした冒険をしてるみたいです。千隼さんと二人でこうしていられるなんて夢みたい」
「しーっ、後ろでさとみが寝てるのをお忘れなく」
「はあい、ふふっ」
目覚めなければいいのに、永遠に。ふとそんな思いが綾の脳裏に浮かぶ。でもそんなことになったら千隼さんはきっと泣くんだろうな。千隼さんが泣くなんて想像もつかないけれど。とも思った。そしてまるで人の死を願うかのような自分が少し怖くなる。
「千隼さん、そういえば、これ、回転数と関係ある感じがしません?」
「回転数?」
「ええ、いつも最初は順調だったじゃないですか。だけど、『さあこれから』って時からおかしくなっていく。そんな気がしてならないんです」
「そうか、確かに『レッドライン』があったかも知れない」
「レッドライン?」
「そう」
千隼は綾からノートパソコンを奪うと、今日のテスト走行中に得たテレメトリーの記録を表示する。
「あたしは7,000回転辺りが怪しいと思ってる。もちろんなんともない時もあるんだけれど、7,000くらいから急にエンジンの感触がおかしくなったことが多かったような……」
綾は千隼からノートパソコンを奪い返すとECUのプログラムの表示をする。
「確かに今日、私もそれは感じました。となると……」
今度は千隼が綾からノートパソコンを取り上げる。
「さっきあたしが見てたプログラムなんだけど——」
また綾が千隼からノートパソコンを取り返す。
「いやそこじゃないです。そこは燃料供給系の——」
「じゃこっち——」
「いや待って待って——それは私が見ますからちょっと千隼さん落ち着いて」
疲労と寝不足で二人とも目をギラギラ血走らせながら、ノートパソコンを奪い合う。
「ふーっ、えーっと、ああこれ、このあたりなんですが、ううーん」
「どう?」
千隼がまたノートパソコンを奪おうとするので、綾はそれをがっちりガードする。
「んー、あれ? おや?」
綾の手が止まる。モニターに目が奪われる。
▼用語
※ ECU:
“
※ テレメトリー:
マシンのあらゆるところに設置されたセンサーのデータを収集し監視し分析しECUに送信する。これによってはじめてECUが機能する。人体に例えれば末梢神経にあたる。
【次回】
第39話 深夜、千隼と綾、そしてさとみ
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