第5話 雨に乾杯す

 若いおかみが身を乗り出し、ビール瓶を差し出したことで、突然心拍数が急上昇する千隼。たった十センチ距離が縮んだだけで、こんな反応をする自分が不思議だった。接触するほどのサイドバイサイドで、オーバーテイクする時だってこうはならなかった。


「えっ、あっ、あのっ」


「? どうされました?」


「いや、何でもないです」


「じゃ、はいどうぞ」


 おかみはビール瓶を持って注ぐ仕草をする。


「えっそんな、た、頼んでないですし……」


「おごりです。私からのおごり、いやですか?」


 と笑顔を見せるが、千隼が答える前に少し早口で付け加えた。


「あ、でも別に強制じゃないんですけど……」


 さっきまでと少し表情の違うおかみ。それは可愛らしい、というかそこはかとない色気を感じる千隼だった。動揺しつつ心を射抜かれた千隼はやっとの思いで返答する。


「おごりって、り、理由がありませんし……」


 多分赤くなっている自分の顔を見られているのだろう。そう思うと更に自分の顔が熱くなるのを感じた。


「うーんそうですねえ…… じゃあ、もう栓を開けちゃったし一人では飲みきれないから手伝ってください。これじゃだめですか?」


 小首をかしげるおかみに、目が離せない千隼。すっかり魅入られ小さくうなずくしかなかった。

 お互いにビールを注ぎあって、乾杯しようとする。


「あ、でも何に乾杯しましょう」


「うーん……」


 と天井を眺めたおかみは、ぷっと吹き出す。


「えっ」


 呆気にとられる千隼をよそにくすくすと笑いが止まらないおかみ。戸惑う千隼。


「えーと……」


「あっごめんなさい。失礼ですよね。でもちょっと恥ずかしいセリフを思い浮かべちゃって」


「はあ……」


 笑いをこらえ、咳払いをして、千隼の方を向いたおかみは、少し真面目な顔で言った。


「では、お客さまが初のご来店をしていただくきっかけとなったこの雨に、というのはいかがです?」


 これだって充分に恥ずかしくてキザだな、と千隼は思ったが、確かにそうだ。この雨が無かったら、自分はこの店に入って彼女とこうして会話することもなかっただろう。初めて感じる言葉にできないこの甘い気持ちをくれた雨に、少しくらいは感謝してもいいのかも知れない。


「そうですね。ほんとにそうです。じゃあ、今日のこの雨に」


「今日のこの雨に」


「乾杯」


 二人は同時に乾杯の発声をした。それに少しどきりとして彼女の顔に目をやる千隼。少しいたずらっぽい目と目が合う。メガネの向こうに光る、ダークブラウンの瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚え、めまいがした千隼はビールを一気にあおる。彼女も一気にビールを空け再度注ぎあう。


「あ、そうだ」


 おかみはカウンターにいくつかの小鉢を置く。たこわさ、枝豆、漬物の盛り合わせなど。


「えっこれどうしたんですか?」


「ふふっ、これもサービス」


「いや、悪いですこんなにいただいちゃ」


「いいんですよ。私からのほんの気持ちです」


「気持ちって……」


「召し上がっていただけませんか?」


 可愛くお願いされてしまった。こうなると、千隼にはもう成す術はない。


「では、ありがたくちょうだいいたします」


「よかった」


 いつの間にかビールは二本三本と開けられ、千隼もおかみも次第に顔を赤らめ、会話も進む。


 どちらかと言えば無口で表情も薄い千隼との会話の中で、若おかみはふと、あの人と過ごしていた夜を思い出した。あの時も、こんな風に二人で語り合っていたのに、彼女の姿は今はもうない。軽くビールを飲み干し、おかみはわずかに心に刺さる寂しさを感じた。それでも目の前にいる千隼が醸し出す安心感のようなものに、彼女では埋められなかった心の隙間が少しずつ満たされていくような気がしていた。


▼用語


※ サイドバイサイド

マシンが横並びになって競り合う状態のこと。


※ オーバーテイク

先行するマシンを追い抜くこと。


【次回】

第6話 甘い胸騒ぎ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る