第25話 千隼の遺伝子

 飛行機に乗っている一時間二十分ほどの間、さとみはずっと千隼の左腕を細い腕で抱えるようにして抱き締めていた。その温もりに千隼の気持ちも穏やかになり、次第に自分を取り戻していく。

 函館空港は小ぢんまりした空港だった。時間に余裕もあったし、物珍しさでぐるり一巡りすると表に出る。


 が、出入り口付近の立て看板を見た千隼は、不意を突かれて愕然とする。再び左腕が疼く。そこには赤と黄色を基調とした派手なデザインでこう書かれていた。


≪ライトニングフォーミュラ初戦・函館スターライトスピードウェイ。飯岡と狭田の一騎打ち再びか!? それとも新たな刺客が? 当日券お問い合わせ下さい≫


 意表を突かれ絶句した千隼。恐怖、絶望、悲しみ、怒り、飽くなきレースへの羨望、そして激しい嫉妬が彼女の頭の中で渦巻く。だが千隼の左腕にしがみ付いているさとみが意外な一言を口にした。


「観に行ってみる?」


「えっ!」


 さとみはぼそりと漏らす。


「だって、ちーちゃんなんか未練のある顔してた……」


「未練……」


 未練と聞いて千隼の中に走りたい欲求が身体の内からどっと溢れてきた。そう、走りたい。走りたい! 走りたい! またあの感覚を取り戻したい! いうことをきかないマシンをねじ伏せて、思い通りにコース上を滑るように走らせる喜びを思い出す。リードしている車をオーバーテイクした爽快感に身を震わせた。だが、怪我が治癒してから、一度だけテスト走行をさせてもらった時を思い出す。思い通りにならない左腕を、かばうようにして走ったタイムは散々なものだった。千隼は泣いた。バイザーを涙でびしょ濡れにするほど泣いた。千隼のレーサー人生が終わった瞬間だった。


 それをまた今度は観客として観に行く。なんだか不思議な感覚に襲われた。そして、もう自分はレーサーではないのだ、と冷たく実感する。だが観てみたい。見届けたい。彼らは今どんな走りを見せてくれるのか。そう思うと、千隼の腹の底から熱いエネルギーがたぎってくるのが判る。そう、今はもう走れないとは言え、千隼にはレーサーの遺伝子がその身体の奥底まで組み込まれているのだ。その遺伝子が求める。熱い走りを。だがさとみは九年前に起きたエミリオ・フェルナンド・リマの死亡事故以来レースから遠ざかっていた。だから、さとみの前ではレースの話はしたことがない。


「でも、さとみ、リマのクラッシュ以来次は誰がクラッシュするのか怖いからって……」


「私の事はいいの。今はちーちゃんのことだけを考えていいから」


「あたしのこと、だけ……」


「そう」


「……よしわかった、行こう」


 千隼はそう言うと真剣な顔でバス停へ向かう。さとみも真剣な表情で小走りにそのあとをついていく。


▼用語


※ バイザー

 ヘルメット前面の透明な樹脂製の防護パーツ。視界を確保し、雨風やほこり、砂礫、虫などといった飛散物などのほか、日光などの照明から目や顔を守る。


【次回】

第26話 悔いて、疎外感を痛感する

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