第26話 悔いて、疎外感を痛感する
サーキットは寒風にさらされ、春まだ遠き冷たい天候だった。千隼とさとみは身を寄せ合い、ジャケットの襟を立ててホットはちみつレモンを飲みながら、コースを見つめていた。千隼は、最初のうちはさとみの問いかけに答える形で、コースやシャシー(車体)、エンジンについて、あるいは未だ現役の見知ったドライバーたちについて、やや興奮気味に語っていた。だが、レース開始二十分前には、千隼はすっかり無口になり、ただコースを凝視するようになった。さとみは千隼の左腕に自分の腕を絡ませ、まるで励ますかのように寄り添う。
シグナルが青に変わり、レースが始まる。耳をつんざくエキゾーストノート、シャシーから立ち上る熱気、観客の歓声、そしてタイヤの焦げる臭いや排気煙、オイルの焼ける臭い――すべてが千隼の記憶に蘇る。千隼の目に涙が滲んでいた。自分はもう、あの狭苦しいコクピットの中に戻ることはできない。サーキットを走ることも二度とない。彼女は痛感した。自分はもはやただの観客に過ぎないのだと。あの取り返しのつかない過ちが、彼女からすべてを奪ってしまった。千隼の体は石のようにこわばり、涙が止めどなく流れ、足元のモルタルの床に小さな染みをいくつも作る。
その時だった。第一コーナー手前で四台のマシンが絡むクラッシュが発生した。千隼の体がビクリと震える。それに気づいたさとみは、千隼の左腕をそっと撫でるように包み込む。
「大丈夫。大丈夫だから……」
赤旗が振られ、レースが一時中断される。四台のうち二台は原型を留めないほどに破壊されていた。観客席にはざわめきが広がっていった。千隼も事故現場を注視する。やがて、すっかり破壊された二台のマシンのコクピットから、ドライバーが何事もなかったかのように降りてきた。客席から安堵の声が聞こえ、千隼も胸をなでおろす。だが、その瞬間、彼女の心には激しい嫉妬が沸き上がった。なぜ自分だけが――そう思うと左腕がズキズキと疼く。それを感じ取ったのか、さとみが千隼の左腕を優しく抱きしめた。温かさが広がるなか、それでも胸の奥には消えない痛みが残った。千隼の涙は再び止まらなくなった。
結局、表彰式なぞ見る気にもなれなかった千隼は、レースが終わるとすぐに立ち上がった。シャンパンファイトも見ずにサーキットを後にする。さとみは無言でその左隣を歩く。まるで千隼の左腕をかばうかのように。それが千隼には何よりも嬉しく頼もしかった。
サーキットを出た直後、背後から若い女性の声が聞こえた。
「星埜千隼選手ですよね?」
また面倒な相手か、と思い渋い顔で振り返ると、そこには十六、七歳くらいの短髪の少女が立っていた。彼女の表情は純粋な憧れに満ちていた。
▼用語
※ シャンパンファイト
表彰式後、表彰台に上がったドライバーやほかの関係者が、シャンパンのかけ合いをして、互いを祝福しあうこと。
【次回】
第27話 新たな彗星
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