第21話 極道は音楽を識る

 背負っていたギターを下ろした紡が、椅子の高さを調整した後にピアノの前へと座る。


 ピアノから少し離れた場所から、杏珠はじっと紡の横顔を見つめていた。

 紡が白い指で鍵盤にそっと触れる。長い睫毛が伏せられて、すっと深く息を吸う音が聞こえた。


 ピアノの伴奏が風に吹かれたように流れる。星が瞬いているような、繊細な音色のピアノだった。前奏が終わると、女性にしては低い紡の声がメロディに言葉を載せて、静かに歌い始める。ピアノが星の瞬きであるならば、紡の歌声は星の小さな光を引き立てる、深い夜闇のように思えた。


 杏珠は初めて聴いたはずの紡の歌声に、何故だか、ひどく懐かしさのようなものを覚えて、目を瞠った。もっと近くで、ずっと聴いていたいような。そんな不思議な感覚。生まれて初めて覚えた、名前の付かない感情に、杏珠は無意識に息を吞む。


 不意に一瞬、ピアノの音が途切れたと思った、刹那——杏珠の視界いっぱいに、強烈な光が弾けた。

 ピアノの幾つもの音の粒が重なった音色が、力強く鳴り響いたかと思えば。それを搔き消すほどの、獅子の如き咆哮が鼓膜を強烈に揺さぶる——その咆哮は、紡がシャウトした歌声だった。


 そこから曲は一変した。星の瞬きのように思っていたピアノの伴奏が、深い夜闇の色となって大らかに、力強く紡ぎ。紡の歌声は、ヴァイオリンの如く滑らかに、高らかに。しかし、何よりも鮮やかに烈しく、華やかなメロディとなって、最後まで火花を散らすような勢いで歌い上げてゆく。


 杏珠は瞬きも忘れて、紡の歌い様を見つめていた。


 全身を使ってピアノを弾く紡の身体が、まるで世界と切り離されたかのように、はっきりと杏珠の視界に浮かぶ。

 鍵盤の上で踊る細い指の白さも、艶やかな黒髪で目元が隠された横顔のたおやかさも、歌を紡いでいる肉厚な花弁のような唇の動きも。

 紡の歌声が——紡の全てを、杏珠の脳に焼き付けるように、激しく燃え滾る。


 玻璃と瑠璃の時は、二人の音を聴いて、杏珠の知らない「世界」が見えた。


 だが、紡の音は——紡の歌声は、違う。

 紡の奏でる音の全てが、歌声こそが、「世界」そのものだった。紡という「世界」だったのだ。紡という「世界」を。全身に、五感に——魂に、焼き付けられた。


「……ああ」


 杏珠の口から、勝手に声が漏れた。先日の玻璃の言葉が、杏珠の脳裏に過る。


『紡の歌は、聴いてしまったが最後——世界が変わる・・・・・・。ぜったい』


 素直に、杏珠は納得してしまった。だって、寸分たがわず、その通りだったからだ。


「もう、あの人しか……見えん」


 杏珠の世界は変わった。変えられてしまった。

 金守紡、または——「金木犀」という名の、音楽によって。


◇◇◇


「フ——……」


 一曲歌い終わって、ピアノから手を離した紡は、目を伏せて深呼吸をする。


「この曲ほんとはロックなんだけど、ピアノで演奏するから。バラード風にアレンジしてみた。どうだった? 杏珠……」


 緊張でずっと速かった心音を抑えるため、そんなことを話しながら紡は杏珠を振り向く。すると、杏珠は片手で口元を覆っており、眉根を寄せて微かに俯くように目を伏せていた。


「杏珠?」

「……」


 紡が呼びかけても、杏珠は固まってしまったかのように反応しない。訝しんだ紡は立ち上がると、杏珠のもとへと駆け寄った。


「おーい。杏珠。どうかした? 気分でも悪、い……?」


 杏珠のすぐ目の前まで来て、紡は思いがけず立ち止まる。顔がよく見える近さにきて、ようやくわかったのだ。

 杏珠の目元が、赤く染まっている。色素の薄い杏珠の白皙の美貌に、赤が差しているところなど、紡は初めて目の当たりにした。


 窓から微かに差す陽の光を受けて、きらきらと光っている長い銀色の睫毛。その伏せられていた銀糸が、ゆっくりと開かれる。露わになった、灰色と青色が混じった碧眼の奥で、銀色の火花が弾けているような気がした。


「……ふ」


 目元を赤らめ、眉根を寄せた白皙の美貌が、悩まし気な吐息を小さく吐く。その吐息にも、おもむろに紡を見据えてきた視線にも、確かに熱があった。


「紡さんは……恐ろしか人だ」


 やはり片手で口元を覆ったまま、ようやく杏珠が口を開く。籠った声も、若干吐息混じりだ。紡は「恐ろしいのはこっちの台詞だ」と内心で叫んだ。今はただ、世を傾けそうな銀色の男の初めて見せる表情に大きな衝撃を受けて、力なく口を小さく開閉させることしかできない。


「聴いて」


 杏珠は一呼吸置いて口元から手を離したかと思えば、紡の手を取ると、その手を己の胸へと押し当てる。紡が触れた杏珠の胸板は、触れただけでも非常に逞しく、分厚いことがわかった。同時に、もう一つのこともわかった——心臓の音がとても大きく、速い。


「生まれて初めて思った。人間の声が、心地いいと。懐かしいと。心臓と脳みそが、全身が熱くなるくらいに、興奮すると。もっと、ずっと——聴いていたいと」


 熱のこもった杏珠の言葉の一つ一つに、次は、紡の心臓が早鐘を打ち始めた。


「これが、音楽か」


 杏珠は赤らんだ目元を細めて、花がほころぶように柔らかな微笑みを零した。


 紡は、初めて杏珠の笑い顔を見た。そのうえ、音楽を知らなかった杏珠が、眠れる音楽の愛し子が、「音楽を知った」のだと。そういう言葉を零したのだ。そのせいだろうか。不覚にも目頭が熱くなって、胸の内に熱い激情が渦巻いて——何かが、弾ける音を聞いた気がする。紡は思いがけず、片手で口を覆う。


 自分の歌声で——「音楽」で。杏珠という音楽の天才に、音楽を知ってもらうことが出来た。この事実に、紡の胸は歓喜でいっぱいになったのだ。


「おれ、紡さんの……金木犀の歌。聴きたかです。もう一度、いや何度でも。やけど」


 杏珠は躊躇うように一度視線を漂わせたが、すぐに意を決したように短く息を吸って、紡を真っ直ぐ見つめた。


「今度は、金木犀が……おれの作った音で歌ってるのを、聴いてみたい」

「!」


 紡は大きく目を瞠って、息を吞んだ。杏珠の要望が、あまりのも想定外で——あまりにも、最高の提案だったからだ。


「それは、つまり……杏珠が、曲を作ってくれるってこと? 金木犀に」

「はい。おれなんかが恐れ多いことですが……紡さんが、ジュピターに行けない代わりにも。おれに、金木犀の仕事。手伝わせてくれませんか」


 少し眉を顰めた杏珠の、今までにないほど真剣な表情。

 紡はその熱を秘めた眼差しを見返して、小さく笑いを噴き出すと、杏珠の肘を軽く叩いた。


「それ、最高」


 紡の短い即答に、杏珠は目を丸くする。


「本当に、よかとですか」

「うん。というか、むしろありがとう。杏珠と曲を作るなんて、絶対めちゃくちゃに楽しいに決まってる」


 紡が歯を見せてにかりと笑うと、釣られたように杏珠も、微かに目元を緩ませて頷いた。


「……ありがとうございます、紡さん。おれも、楽しみです」


 それから二人は、杏珠の仕事が空く時間にこのピアノがある部屋を度々訪れるようになる。

 そうして、「金木犀」の新たな音楽を創る毎日が始まったのだった。

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