第10話 金色硝子の好奇心

 昔から玻璃という男は、勘が鋭いうえに目聡い。

 揶揄ってきているようにも見えるが、もしかすると、杏珠の素性を直感で疑っているのかもしれない。


「揶揄わないで」

「へぇ? むきになるってことは、やっぱり紡、やらしーこと隠してるんだ」

「むきになってないし、隠してないし、やらしいこともない!」


 ここは素知らぬふりを貫き通すのがいいと悟った紡が短く玻璃を一蹴していると、カウンターにいたマスターが「ごめん、金守ちゃん! 少しいいかい?」と紡たちの席へ急いだ様子でやってきたので、紡はマスターに首を傾げて見せる。


「マスター? どうしました? あ、お店の手伝いだったら、休んでた分もあるので喜んでやりますよ!」

「ああ、ありがとう。せっかくお友達と楽しいところに水を差すようで、申し訳ないんだけど……金守ちゃん、今からちょっとだけでもいいから、ピアノ弾けないかな?」

「! ピアノ、ですか」


 紡が目を瞬かせると、マスターが申し訳なさそうに眉を下げて見せた。


「それが、今日演奏を披露してくれる予定だったゲストが、急な体調不良で来られなくなってしまったと。たった今連絡が入ってね……今日の演奏を楽しみに来てくれたお客さんもたくさんいるから、どうにも忍びなくて。だけど、金守ちゃんの演奏なら、絶対に皆喜んでくれる……! 本当に突然ですまないが、どうにか演奏してもらえないだろうか……?」


 頭を下げるマスターに、慌てて紡が声を掛ける。


「顔を上げてください、マスター! それなら、私……」

「そうは言われても、マスター。紡さんはピアノを弾けません」


 紡が承諾しようとした声をすぐさま遮ったのは杏珠。


「は? ……ちょっと、杏珠。何言って」

「紡さん」


 紡は鋭い目を思いがけず吊り上げて、杏珠に反論しようとする。しかし、杏珠が紡の名を呼びながら、密かにスマホ画面をテーブルの下から紡へとかざして見せた。


『この店は紡さんのバイト先だと、紡さんを狙う半グレ連中に知られてる可能性が高いです。店に迷惑かけんためにも。紡さんはまだ、目立つべきじゃない』


 そんな文面が杏珠のスマホ画面に映し出されており、それを目にした紡は杏珠の言うことにも一理あると納得してしまって口を噤む。

 杏珠の断りに、マスターは困惑したように顔を上げて杏珠と紡の両者に目を向けた。


「金守ちゃん、何か演奏できない理由が……?」

「はい。紡さんは先日の引っ越しで、手首を痛めてしまって。無理してピアノを弾ける状態じゃないんです。そうでしょう? 紡さん」


 杏珠の催促するような物言いに、紡は一度沈黙を置くが、すぐに渋々と頷いて、マスターへと深く頭を下げた。


「そうなんです、マスター。本当にすみません、こんな時でもお役に立てなくて……」

「いやいやいや! 謝るのはこっちの方だよ! 事情も知らずにお願いしてしまって悪かったね、金守ちゃん。全然気にしなくていいから。でも、手は大切にするんだよ? 金守ちゃんの手は、音楽の宝なんだから!」

「……すみません。ありがとうございます、マスター」

「いいんだ、いいんだ! そうなると、演奏はどうしようかね……ピアノが弾ける知り合いなんて、今日は金守ちゃん以外来ていないからなあ……」


 揃って肩を落とすマスターと紡を見かねたように、玻璃が明るい笑みを深めながら、片手を軽く掲げて振って見せた。


「じゃあ、俺が弾こうか? 天才ピアニスト、参上! って言ってみたかったん……痛っ」


 即座に玻璃の頭を叩いて、その軽口を遮ったのは紡だった。


「馬鹿。玻璃が弾いたら、一発であの〝銅本姉弟〟の片割れだってバレて、大騒ぎになるに決まってる。そんなことになったら、瑠璃にぶん殴られるじゃ済まないよ?」

「……うーん。確かに」


 小声で睨んでくる紡に、玻璃は激怒する双子の姉を思い出したのか小さく苦笑を零して頷く。

 そんな微妙な空気の中。唐突にその場に立ち上がったのは、杏珠だった。


「それなら、おれが弾きます」


 相変わらず一欠片の感情も滲ませない無表情の杏珠以外。その場にいた紡、玻璃、マスターの全員がひどく驚愕した顔で、大きく目を見開かせて杏珠を見上げた。

 一番に杏珠に反応したのは玻璃。玻璃はどこか面白そうな目で杏珠を見上げたまま、小首を傾げて見せる。


「アンちゃん、ピアノ弾けるんだ?」

「前に触ったのは、もう随分昔ですが。ガキの頃からやらされてたんで、今もやってみれば身体が勝手に思い出すでしょう。マスター、いいですか?」

「……あ、ああ。君がよかったら、是非。それじゃあ、準備するよ」

「では、お借りします」


 マスターと共に席から出て、杏珠が淡々とした足取りでピアノの方へと向かう。

 茫然としていた紡は慌てて席から腰を浮かせて、杏珠の背中を呼び止めようとした。


「ちょ……! 杏珠、昔弾いてたことがあるだけなんでしょう!? 楽譜も持ってないのに、どうやって」

「紡」


 席を立って、杏珠を追いかけようとする紡の腕を掴んで止めたのは、玻璃。紡が戸惑った顔で振り返ると、玻璃は杏珠の背中を目を大きく見開いて見つめたまま、口角を美しく吊り上げて、紡に席に戻るよう促した。


「たぶんこれ、すげぇ面白いもの見れる気がする。一緒に見よう」

「……」


 玻璃に腕を引かれて、紡は再び席に着く。そして、不安な気持ちを拭えぬまま、杏珠とピアノを見守ることとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る