第11話 音楽に愛されし極道
杏珠は何やら、ピアノに向かうまでに店に来ている客を観察しているようにも見えた。
そして、いつもの如く幽霊のように気配を消したまま、ピアノの前に美しい姿勢で座る。店の客は、紡たち以外の誰一人として、杏珠の存在に気が付いていないようだった。
おもむろに、杏珠がピアノの鍵盤に長い指で触れたと思ったら、いつの間にか店内に音楽が流れていた。まるで、初めから店内の空気に馴染んでいたかのように。
杏珠が弾いているのは、曲は聴いたことも無いが、ひどく耳の奥に残るようなバラード曲だった。
それが瞬時に解った紡は、大きく目を瞠って視線を杏珠に縫い留めたまま、小さく玻璃に尋ねる。
「玻璃。この曲……知ってる?」
「いや。俺も知らない曲だね。そんなの、滅多にないと思うんだけど」
そうだ。年代を問わず音楽に詳しい紡どころか、生まれた時から無数の音楽に触れてきた天才音楽家でもある玻璃でさえ、杏珠が今弾いている曲を、知らないのだ。
(まさか……)
紡は内心で信じられない、と呟く。
その間にいつの間にか、店内の全ての客の視線と耳が自然と、杏珠とそのピアノの音に集中していた。
流れるように滑らかな音色だというのに、ピアノの音の粒の一つ一つが明瞭に聞こえる。音の粒の全てが丁寧に、やさしく鼓膜を打つ感覚がする。柔らかな雨音のような。川の静かなせせらぎのような。
紡は——否、紡だけではない。店内にいる全ての人間が、既に杏珠の奏でる音の「世界」に呑み込まれていた。
目を閉じずとも。杏珠の奏でるピアノの音は、心地の好いそよ風が髪と頬を撫で。懐かしさを覚えずにはいられない、咲き誇った花々と新芽と、仄かに乾き始めた土の匂いを錯覚する。
ずっと、この「世界」に居たいと。そう思わずにはいられないほどに、鮮やかで、柔らかで、静かで、濃密な「音楽」の中に、紡たちは引き込まれていた。
キン。
そんな、ピアノの高くて丸い音を最後に、杏珠が創り出していた「世界」は幕を下ろした。
しばらく店内は呼吸の音すらしないほど静まり返り、皆ぼんやりと杏珠の音の「世界」の余韻に浸っている。
それにも構わず杏珠は立ち上がって、ピアノの前で小さく頭を下げて見せると、淡々とした足取りで紡たちのところへ戻ってくる。そこでようやく、店内の人間の意識が一斉に現実へと帰ってきて、自然と穏やかな拍手が巻き起こった。
「……へぇ?」
紡の向かいに座る玻璃が、片手で口元を覆い、堪え切れないような笑いを含んだ声を漏らす。その横顔は、恐ろしいほどに妖艶な笑みを湛えていた。
おそらく玻璃も今、紡と全く同じことを考えているのだろう。そして、「音楽の天才」であるがゆえに、当然気付いてしまったのだろう。
(店内のお客さんは皆、仕事帰りの人も多い。癒しを求めて、疲れてる。それを一瞬で見抜いて、多くの人間の『今の心』に深く入り込み、自然と寄り添う音楽。そんな音楽を、『世界』が見えるまで再現して見せるなんて……)
紡は確信した。
杏珠には、紛れもなく——「音楽家の天賦の才」があるのだと。
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