第3話 極道の世界
『いいか、紡。ヤクザにだけは、心を許すな……これだけは、忘れんじゃねぇよ』
昨年他界してしまった、紡にとってたった一人の肉親であり育ての親でもあった祖父、
退職するまでは、大阪府警刑事部捜査第四課——通称「マル暴」の刑事だった雪繫。暴力団対策のために長く刑事を務めた雪繫だったので、ヤクザを酷く嫌っており、嫌うを通り越して憎んでいたようにも思える。
そんな祖父、雪繫のいつもの口癖は「ヤクザに決して心を許すな、何が何でも関わるな」だった。
耳に
◇◇◇
「つきました。降りてください」
ふと、肩を強く揺さぶられて紡は目を覚ました。どうやら、うたた寝中に祖父の夢を見ていたらしい。すぐそこには、車のドアを開け放って、こちらを覗き込んでくるあの幽霊のような美しい男がいる。
「おっ、わ! す、すみませ……痛!」
慌てて身を起こして車を降りた拍子に、紡は思い切り頭をぶつけて、思わず頭を抱えながら呻く。
「大丈夫、ですか」
男が、拙い敬語で紡に手を伸ばしてくる。紡は祖父、雪繫の「ヤクザに心を許すな」というさっきの夢の続きの言葉が蘇って、反射的に男の手を振り払っていた。
(しまった……ヤクザだと思うと、つい……!)
殴られる、と思った紡は、嫌な汗を滲ませながら、恐る恐る男を見上げる。しかし手を振り払われた男の美しい顔は、微塵も無表情から動くことなどなく。真っ直ぐに紡を見つめたまま、口を開いた。
「事務所に案内します。ので、ついてきてください」
男はそれだけ言って、紡に背を向けると歩き出す。紡は男のあまりにもの無反応さに目を瞠る。しかし、そんな紡にも構わず、男はどんどん先へと進んでしまい、その大きな背中が遠くなっていった。流石に、見知らぬ土地で一人になるのはまずいと思い至った紡は、祖父の「ヤクザに心を許すな」という言葉を胸に、男の後を追いかけた。
紡が連れてこられたのは、立派な日本家屋の屋敷だった。紡は目の前に聳え立つ大きな屋敷を見上げて、小さく呟く。
「まさか、ここが……?」
「烏藤組の事務所、です」
紡の呟きに、斜め前に立つ男が静かに応える。
ふと、屋敷の中から何人もの男たちが出てきた。男たちは皆、強面ばかりで、腕には和彫りの刺青が入っている者も少なくない。おそらく、烏藤組とやらの組員なのだろう。
(やっぱり、来ちゃったのか……ヤクザの事務所に)
紡は小さく息を吞む。
屋敷から出てきた組員たちはこちらに気付くと、すぐに紡の前に立つ男のもとへと駆け寄って来て両膝に両手を置き、中腰になって皆、男に頭を下げた。
「
「ご苦労様です! 兄貴」
「
(あの人、見た目からして私より若い……まだ二十代前半くらいだろうに。結構な数の舎弟がいるんだ)
紡がひっそり、男とそれを囲む組員たちを観察していると、ヤクザたちがこちらに気付いた。そのまま、紡まで男と一緒に囲まれてしまう。
「女? ……この女、どうしたんです?」
「へぇ! 女連れとは珍しいですね、兄貴。また店に出すことになった、借金まみれのクソ女ですか」
組員の一人が呆れたような目で紡を見てくる。「また店に出すことになった、借金まみれのクソ女」という発言に、紡はやっぱりこの人たちはヤクザなんだと、ようやく実感が湧いてきて、緊張で心音が速くなってゆくのを感じた。
「おい」
しかし、男の抑揚の無い声が、やけに低く、冷たく聞こえたと思った瞬間。紡を「クソ女」と呼んだ組員が、男によって唐突に胸倉を掴み上げられると、二発連続で殴られ、三発目の拳で地面へと殴り倒された。
「がはっ……!」
地面に伏した組員が苦悶に身を縮め、唸る。紡は驚愕して一歩後退り、他の組員たちはすぐさま男へと頭を垂れて見せて、紡と同じように一歩後退った。
男は殴り倒した組員を片足で踏みつけながら、頭を垂れる組員一同に獣如く鋭い視線を巡らせる。
「クソはお前らの方やろ。この人は、
ぞっとするほど、無機質な声だった。
唖然とする紡の横で、頭を垂れた組員たちが声をそろえて男に更に頭下げる。男よりも何倍も強面な組員たちだが、皆揃って、その顔は蒼ざめていた。
「はい。申し訳ありません、兄貴」
暴力と恐怖で、人を従える世界。それが、ヤクザ。
それを改めて思い知った紡は斜め前に立つ、恐ろしいほど美しい、幽霊のような男の横顔を見つめて、短く息を吸いこんだ。
(ああ、やっぱり……この人、奇麗な幽霊なんかじゃない。正真正銘の、ヤクザだ)
男は流し目で紡を見ると、小さく頷いて見せた。
「無礼をすみません、お嬢。それじゃあ、組長のところへ行きましょう」
男は何事もなかったように淡々と歩き出す。他の組員たちは頭を下げたまま、素早く男に道を開けた。
紡は冷えた胸を片手で押さえ、深呼吸をすると、男の後に続く。
改めて、ヤクザには決して心を許してはならないと。紡は強く、痛感していた。
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