第2話 金木犀と幽霊

 紡は眠気に支配されつつある目を擦りながら、ふらりと立ち上がる。


「んん? こんな時間に……何事?」


 首を傾げて訝しむ紡は、玄関へとつながる廊下の方を振り返った。そして、己の目を疑うこととなる。

 確かに鍵を閉め、チェーンまで掛けたはずのドアが、完全に開け放たれていたからだ。

 加えて、人がいる。全開になった玄関から、廊下のすぐそこまで土足で上がってきている——スーツ姿の長身の男が一人、いた。暗がりの中なので、その姿ははっきりとは窺えない。


「……」


 男は痛いほどの沈黙と薄暗闇を纏ったまま、こちらをじっと観察しているようだった。紡は全身からゆっくりと血の気が引いていく感覚を味わいながら、息を吞む。


(なにこれ。夢? 何で、鍵が……不法侵入? 強盗? はやく何とか、しないと)


 紡は無意識に一歩、足を引いた。すると、廊下にいる男が低い声を鋭く刺すように発する。


「あんまり、動かんで」


 職業柄のせいか。反射的に、いい声・・・をしていると思った。そんなことを考えている場合ではないというのに。

 紡はその声に従って、ピタリと石の如く動きを止める。下手に刺激を与えてはいけないと考えたのだ。


「金守紡」

「は……?」


 不意に男のバリトンボイスが、紡の名前を呼ぶ。紡は思わず間の抜けた声を漏らした。

 突然、幽霊の如く現れた——もしかしたら本当に幽霊かもしれない男は、何やら紡のことを知っている。紡は咄嗟に口を開こうとしたが、それはすぐさま遮られた。


 ガラッ! と、背後でベランダに続く窓が開け放たれた音が荒々しく鳴った。その音に反応して紡は素早く振り返ると、ナイフのような形状の刃物を振りかざした体格の良い大男が、すぐ目の前まで迫って来ていた。


(な……!)


 思いがけず大きく目を見開いた紡の呼吸が、ひゅっと止まる。

 大男の手に、捕まる。そう思った瞬間、紡は後ろから強く肩を引かれて、そのまま玄関に続く廊下へと吹っ飛ばされるように倒れ込んだ。


「くっ……!?」


 何が何だかわからないまま倒れ込んだ紡は、再び上体を起こして、リビングの方に目を向けた。

 視線を上げた先では、幽霊の男が大男の顎に下から掌底を打ち込み、続けざまに鳩尾へと強烈な膝蹴りを喰らわせていた。気絶してしまったのか、大男はその場に膝から頽れる。

 しかし、息を吐く間もなく、ベランダからまた二人の強面の男たちが飛び出してきた。幽霊の男はまるでそれを知っていたかのように、男たちを迎え撃つ。


 幽霊の男は侵入してきた男の一人に、風の唸る音を鳴らして見事にこめかみへと回し蹴りを飛ばして、瞬く間に力尽くで床に伏せさせる。

 もう一人の男は銃を持っていたようで、幽霊の男めがけてドン、ドン、と二回発砲音が撃たれた。だが、幽霊の男は人間とは思えない反射神経で、最後の一人が発砲してきた二発の銃弾を躱して見せる。幽霊の男は素早く男に接近し、銃を持つ手を目にも留まらぬ疾さで「ペキッ」と膝を使ってへし折ると、男の顔面に一撃、その次には顎を大きく揺らすように横から拳を叩き込んで、倒してしまった。


 ベランダから現れた見知らぬ男たちを全て、いとも容易くその場に伸して見せた幽霊の男は、気絶した男たちの顔を順番に引っ掴むと、歯がポロポロと折れて落ちてゆくまで、何度も顔面を殴りつけていた。


 男たちの顔が真っ赤に染まり、原形がわからなくなってしまうまで、どれほど経っただろうか。

 両手を赤で濡らした幽霊の男は、我に返ったように顔を上げるとその場に立ち上がり、茫然と廊下で座り込んでいる紡を見下ろしてきた。


「……あ」


 幽霊の男を見上げた紡は、掠れた声を零した。そこでようやく、幽霊の男の顔が、はっきりと見えたからだ。


 幽霊の男の背後から、夜明けの青い光が差し込んでくる。その青白い光が差した男の肌は、透き通るように白い。短い髪はきっとプラチナブロンドなのだろうが、青白い光に照らされて、銀色に輝いて見えた。鼻梁は高く、すっと通っている。そして、獣のような鋭い双眸は、灰色と淡い青色が混じり合ったような、神秘的な碧眼。


(もしかして、本当に幽霊……?)


 紡が、そう思わずにはいられないほど。

 この世のものとは思えないくらいに、美しい銀色の男だった。


「やっぱり、夢か……これ」


 紡は信じられないほど美しい幽霊のような男を前に、今までに起こった非日常的な出来事も踏まえて、これが現実なのかどうかを疑う。

 そんな紡の戸惑いの声を聞いてか、男は紡のすぐ目の前まで歩いてくると、紡の視線に合わせるように跪き、血塗れの手で紡の白い腕を取った。


「失礼しました。お嬢」

「うわ、まともな人の言葉喋れたんだ。じゃなくて……は、え……おじょう?」


 思いがけず支離滅裂なことを口走った紡だが、男の「おじょう」という言葉のおかげで、脳内では混乱の嵐が吹きすさぶ。


烏藤うとう組組長、烏藤うとう 次晴つぐはるの命であなたを迎えにきました。あなたは今、その身を狙われてる」


 男の口から出てきたのは、またもや予想だにしない言葉の数々。紡は軽く頭を抱えて、掠れた声を連ねた。


「ウトウ組って? ……もしかして、ヤクザ? 私が狙われてる? 何もかも、訳が分からない……それに、いきなりウチに入って来たそこの人たちもいったい何なの……!?」


 何が何だか、一つも状況把握ができない。そのせいで、少しばかり声を荒らげた紡だったが、そんな紡を気にした風もなく、男が紡の腕を引いて無理やり立ち上がらせた。


「詳しい話はまた後で。もうすぐ警察がくる。その前に、あなたを組長のもとまでお連れします。とにかく今はおれについてきて……ください」


 敬語に慣れていないのだろうか。そんな妙な喋り方をする男は、強く紡の腕を引いて、紡をアパートの外へと連れ出す。


「え、あ……ちょっと……!」


 もしかしてこれは、誘拐なのでは? と、男についていくのを躊躇う紡であったが、男の尋常ならない力の強さに痛みを感じ、逆らうことの方が難しいと即座に考え至って、大きく溜め息を吐き出した。


 そうして紡は男に連れられるがまま、如何にも「それっぽい」黒色の車の後部座席に押し込まれ、半ば強引に何処かへと連れ去られるのであった。

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