第20話 金木犀の歌
銅本姉弟のコンサートから、数日が経ち。
紡はスマホ画面に写し出された玻璃からのメッセージを読み返して、溜め息を吐いていた。
『ごめん、紡。俺、アンちゃんの地雷踏んじゃったかも! 何か様子変だったら、テキトーにフォローしといて。よろしく!』
僅かに顔を引き攣らせながら、紡は畳の上に寝転がって呻く。
(地雷踏んじゃったかも! じゃないんだよ、玻璃の馬鹿……。確かに最近の杏珠、あんまり目が合ったりしないし、避けられてる感じが……というか、何で私が避けられてる? どんな地雷踏んだんだ。何やらかしたんだ)
どうしたものかと、紡が更にうんうん唸っていると、スマホがピロンと鳴った。画面を覗くと、そこにはまたもや玻璃からのメッセージが届いている。
『もうどうしようもねぇ! って時は、紡の歌を聴かせてみて。この間アンちゃん、紡の歌聴いてみたいって言ってたからさ』
この間、というと、コンサートの時だろうか。
「……」
紡の歌を聴いてみたい。杏珠がそんなことを玻璃に言うとは正直思えなかったが、他に杏珠をいつも通りに戻せる方法が思い浮かぶわけでもなく。玻璃もずる賢い男なので、何か考えがあっての助言なのかもしれない。
「……やるか」
紡は意を決したように小さく呟くと、スマホ片手に身軽な動きでトンと跳び起きた。そのまま、スマホを耳まで持ってくる。
『何ですか。紡さん』
ワンコールで、杏珠が電話に出た。そこはいつも通りなのだと思いがけずビクつきながらも、紡は杏珠に至って平常心を装って短く問う。
「あ、杏珠。今から離れに来れない? ちょっと、話したいことが」
『もう玄関前に居ます』
紡の声を遮って即座に答えて見せた杏珠に、思わず紡はドン引きした声を漏らした。
「は? こわ……ねぇやっぱり、この離れ監視カメラとかつけてる?」
『つけとらんです』
「じゃあ、何で既にいるわけ」
『事務所の余った茶菓子、お裾分けしようかと思って。ちょうど』
「……」
『いります?』
「いる。今から出るから、ちょっと待ってて」
電話を切った紡は「いつも通りできた……」と小さく息を吐くと、背後にあるキーボードやアコースティックギターを見た。
「歌……えるか……? やばい。かつてないほどに、緊張」
もともと緊張しいな紡であったが、杏珠に自分の歌を聴かせると思うと、かつてないほどに胃が痛くなるような思いがした。
だが、もうやると決めたことは、やるしかないのだ。紡は重ねて決意を固くするように胸を拳で叩くと、玄関に向かった。
「どうぞ」
「あ、どうも」
いつもの如く、気配を消して玄関前に立っていた杏珠から茶菓子を受け取った紡。
「……」
「……」
そして、二人の間に重い沈黙が落ちる。こんな時でもやはり、杏珠は紡と目を合わせようとはしない。いよいよ、この空気に耐え切れなくなった紡が、半ばやけくそになって声を上げた。
「あーー……もう、うん! わかりました! 腹括った! やればいいんでしょう、やれば!」
「? やる……?」
突然声を上げた紡に、杏珠は困惑したような声を漏らす。
「そう、やる! ……今から私、仕事するから。杏珠、見ていかない?」
「仕事、って……」
微かに目を丸くした杏珠へと、紡は「金木犀」のチャンネルが写し出されたスマホ画面をかざして見せながら、大きく頷いて見せた。
「私が仕事で作ってる……歌。聴いて欲しい。キーボードとかギターならあるから、中に入って」
紡がそう言って、再び離れの中に入ろうとすると、不意に後ろから腕を引かれた。
「聴きます。聴きたい、ので……ちょっと、場所は変えませんか?」
紡の腕を掴んだまま。少しだけ前のめりになって、いつもより早口な杏珠の顔を振り返って、紡は思いがけず首を傾げるのだった。
◇◇◇
紡はアコースティックギターを背負って、杏珠の案内で烏藤組事務所のとある一室の前まで来ていた。
木製の大きな扉を前にした杏珠が、古びた鍵を差し込んで鍵を開ける。中に入ると、部屋の中は思っていたよりも広く、がらんとした風に見えたが——奥には、年季の入ったグランドピアノが一台、静かに佇んでいた。
それを目にした紡は大きく目を瞬かせて、杏珠を見上げる。杏珠はグランドピアノに視線を縫い留めたまま、ゆっくりと口を開いた、
「昔、
そう言いながら杏珠はグランドピアノへと近づき、その屋根を開けると、未だに部屋の扉の前で驚きに身を固めている紡を振り返った。
「歌、聴かせてもらってもいいですか?」
ようやく目が合った杏珠の顔は、相変わらずの無表情だ。しかし紡は、最近ようやくその無表情に微かに浮かぶ、杏珠の感情の欠片のような「何か」を読み取ることができるようになっていた。
(今日は……初めて見る顔、してる)
紡を見据える杏珠の真っ直ぐな眼差しは、何かを見極めたいかのような。そんな、ほんの少しの熱のようなものを感じる。
紡はグランドピアノと杏珠のもとへと歩き出しながら、力強く頷いた。
「うん。聴いて欲しい。私の——『金木犀』の歌を」
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