第24話 極道は銀木犀には成れない

 それから二週間。紡と杏珠の曲作りは、ようやく終わりが見えてきた。


 今日も紡と杏珠は、烏藤組事務所のピアノがある部屋で曲作りに励んでいる。

 紡はすぐ隣で、出来上がった曲のメロディをピアノで弾いている杏珠を密かに見つめていた。


(……杏珠。ピアノ弾いてるときは、表情が柔らかい)


 曲作りを始めた杏珠は、初めて会った時よりも幾分も感情が読み取りやすくなったような気がした。それを紡は非常に嬉しく、またはおそらくだが、音楽を好きになってもらえて良かったと思う。

 同時に、いつかは杏珠の音楽をもっとたくさんの人に知って欲しいと、強く思わずにはいられなかった。


「そういえば」


 ふと、杏珠がピアノを弾きながら紡に声を掛けてきた。珍しいことだと思いながらも、紡は「なに?」と杏珠に声を返す。


「紡さんはどうして、歌手名を『金木犀』に?」


 またもや意外な質問に、紡は目を丸くしながらも、すぐに杏珠へと答えた。


「じいちゃんが好きな花だったんだ。金木犀。そこからいただいた名前」


 紡は窓の外の遠くに目を移して、内心で呟く。


(でも、まあ……私は銀木犀のほうが好きなんだけど)


 そんな心の内をまるで読み取られたかのように、杏珠が冗談めかした口調と声色で言った。


「じゃあおれは、〝銀木犀〟になろうか」

「え」


 滅多に聴かない杏珠の軽やかな声色と言葉に、紡が弾かれたように振り向いた。

 確かに杏珠は銀木犀に似ていると、密かに紡は感じていたからだ。白い半月のような銀木犀の花と、銀色に近い輝きを持った杏珠のプラチナブロンドの髪色は、きっとよく似合うだろう。


 杏珠は相変わらず、完璧な調子で美しいピアノの音色を奏でながら、口を開く。


「金木犀、紡さんによく似合っとる。紡さんの歌声は、金木犀の色と匂いみたいに華やかやし。苗字も金守ですしね」


 鍵盤の上で、骨ばった長い指を優雅に滑らせる杏珠。伏せられた目を縁どる睫毛が、銀色に光っていて、その表情は今までに見たことがないほど穏やかにも見えた。


「それなら、おれは銀木犀かもって。銀木犀って、色も匂いも控えめでしょう。そんな目立たん男ですし、おれ。あと、名前が銀木ですから」


 杏珠の言葉の数々に、紡は自然と心音が高まるのを感じた。


 杏珠が紡と同じアーティスト——「銀木犀」となって、「金木犀」の自分と一緒に音楽を色々な人に、たくさんの人に届ける。それは何よりも素敵なことであり、どうしてもやってみたいことだと、紡は思った。

「銀木犀」のような杏珠と一緒に、音楽をやりたいと。熱く、強くそう思わずにはいられなかった。


 紡は思いがけず、興奮の混じった声で杏珠のそばに一歩近く。


「じゃあ一緒に音楽やろうよ、杏珠! 杏珠なら絶対に音楽家になれる! 『銀木犀』になって、私も一緒に……」

「ごめんなさい、紡さん。さっきのは冗談です」


 杏珠は紡の言葉を遮ると、至極柔らかな声色で、ぴしゃりと言い切った。

 杏珠の奏でるピアノの音色が、どんどん遠のいていくように。小さく、ささやかなものになってゆく。


「おれは、極道です。何があっても、どうやっても——たとえ、紡さんの望みでも、命令でも。死んでもおれは、『銀木犀』にはなれん」

「は……」


 紡は乾ききった声を思わず漏らした。

 杏珠の答えは、杏珠のその言葉は——明らかな、絶対的な「拒絶」だったからだ。


 不意に、杏珠のスマホに無機質な着信音が入り、杏珠のピアノの音色が完全に途切れる。電話に出た杏珠が「わかった。すぐに行く」と短く言って電話を切ると、椅子から立ち上がって、無表情のまま紡を見た。


「すみません。ちょっと、仕事で出てきます」


 杏珠はそのまま紡を置いて、部屋の扉の前まで早足で行くと、取っ手に手を掛ける。紡は咄嗟にその大きな背中へと声を掛けて、引き留めた。


「でも、私……! 杏珠と一緒に、もっと音楽やってみたいよ! 杏珠の音楽には、人を楽しませて喜ばせる……人を幸せにできる力が、絶対にあるから」

「そんなもん、ありませんよ」


 紡の言葉を硬い声で一蹴して、杏珠は流し目で紡を振り返った。


「紡さん。これだけは忘れんとって——おれには、暴力の能しかない。おれは、使い捨ての道具でしかない、そういうクソヤクザです。特におれみたいなのは人を不幸にしかせん。だから、紡さん。おれなんぞに気ぃ許したら、絶対だめだ」


 紡を見据える杏珠の碧眼は、総毛立つほど冷たく鋭利で、確かに殺気がこもっていた。

 それを受けた紡の脳裏にまた、「ヤクザに心を許すな」という祖父の遺言が、警鐘の如く鳴り響いてくる。

 思いがけず逃げるように後退った紡を残して、今度こそ杏珠は部屋を後にする。

 紡はただ茫然と、杏珠がついさっきまで楽しそうに弾いているように見えたピアノの鍵盤を見つめることしかできなかった。


◇◇◇


 紡を置いて、一人仕事に向かっている杏珠は、今朝の次晴からの言葉を思い出していた。


『半グレ共の件と、紡の名前を言いふらしている女の件が片付けば、紡とはもう二度と関わらないようにする。紡がヤクザの道具に成り下がっちまう前にな。……あの娘は母親によく似て、音楽の才能がある。表の世界で才能を発揮し、華々しく幸せになるべきだ。私たちのような日陰者は、いつまでもそんな住む世界の違う人間と関わっていてはならんだろう。杏珠、手前ェもそれを重々承知しておけ』


 次晴の言葉を何度も反芻しながら、杏珠は一つ瞬きをして、己の両手を見た。

 人間を殴り慣れた歪な形の手は、いつも決まって真っ赤に染まって見えた。

 何故だか、心臓にぽっかりと大きなあなが空いている気がして、虚しかった。


 しかし、紡と一緒にピアノを弾いている時だけは、それらを全て忘れていた。白黒の鍵盤に触れていく時だけ、己の手は普通のまっさらな手で。心臓も身体も、どこにもあななんか空いてなくて、虚しくもなくて。ひたすらに軽やかで、心地よかった。


『杏珠』


 今ではもう、目を閉じれば容易に紡の声を思い出せるようになった。

 紡の声を、紡の歌を聴くと、紡と音を奏でると——紡と居ると、何もかもが違って見えたのだ。万物が、全く違う色と形に思えた。

 やはり、玻璃の言った通り——世界が変わるのだ・・・・・・・・


(……やけど、いつかは忘れんと。そんなことは、全部)


 しかし、紡によって「世界が変わる」ことは、それはいけないことなのだと。次晴の話を聞かされて、ようやく杏珠は思い出した。

 自分は、ただの使い捨ての道具で。本来は紡の隣に——そばに居ていい存在ではないのだと。


(組長オヤジも、紡さんを組の駒にはなるべくしたくないと思っとる。それなら、おれのやるべきことは一つしかない)


 そして、紡のことは何としても守って、表の世界に帰さなければならないのだと。

 杏珠はスマホの画面に写った組員からのメッセージを再び確認する。そこに記されていたのは、紡を狙う半グレ共の拠点を割り出したという報告だった。


(紡さんに手ぇ出す人間は誰だろうが、容赦せん——この手で一人残らず、殺す)


 昏く燃える眼差しを細め、杏珠はそんなことを改めて固く心に誓うと、烏藤組事務所を後にした。

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