第17話 眠れる天才
三日が経ち。銅本姉弟のコンサート当日。
烏藤組事務所の離れにて。紡はコンサート用の礼装として、ケープを羽織っているようなデザインをした、ブラックのパンツドレスに着替えていた。
姿見を覗き込む紡は、首を捻りながらぶつぶつと呟く。
「コンサート久々だからな……こんなもんでいい? 地味だけど、まあ私には地味なのが一番お似合いか」
紡がそう小さく息を吐いたところで、玄関が叩かれる音が聞こえてきた。
紡は「はーい」と声を上げながらバックを肩に引っ掛けると、玄関へと小走りで向かう。玄関の引き戸の向こうには、やはり気配は感じない。しかし、そこには絶対に今日のコンサートの同伴者がいることを確信して、紡は引き戸を開け放った。
「おはよう、杏珠——おお。よかった。ちゃんと堅気っぽいスーツだ」
そこには、ワイシャツの上に紺色のジャケットとスラックスを身に纏った、カジュアルで品の良い、ネクタイ無しのスーツ姿な杏珠の姿があった。
紡の「堅気っぽい」という言葉に少しだけ眉根を寄せた杏珠だが、すぐに小さく頭を下げて挨拶を返す。
「おはようございます。紡さん」
「うん——にしても。そういう格好でも、相変わらず男前だ。かっこいいよ、杏珠」
紡は杏珠の頭から爪先までをじっと見つめると、腰に片手を当てて屈託なく笑った。そんな紡の顔を目にした杏珠は、目を丸くする。
「……」
「? なに、その顔」
珍しく、いつもの無表情を微かに崩している杏珠を不思議に思って、紡は首を傾げる。杏珠は沈黙を置いて、呟くように声を漏らした。
「いや、紡さんの方こそ……紡さんって笑うんだ、と思って」
「え。杏珠にだけは言われたくないな……そりゃあ、私も笑うよ。人間だし。杏珠も笑うでしょう?」
紡の問いを受けた杏珠の瞳が動揺したかのように、揺れた気がした。
杏珠は視線をゆっくり漂わせると、一つ瞬きをして、小さく首を横に振った。
「……わからん、です。おれ、まっとうな人間じゃなかけん」
紡が思わず、短く息を吸いこむ。紡は自分も、「まっとうな人間ではない」「普通じゃない」という自覚があったからだ。
変なところで杏珠との共通点を見つけた紡だったが、悲しいのか腹が立つのかわからない、複雑な気持ちを振り払うように頭を振って、離れの玄関から外に出た。
「じゃあ、私もまっとうな人間じゃないから。私と同じ杏珠も、笑えるに決まってる」
「おれと紡さんは、違うやろ。何もかもが」
「同じだよ。……もうこの話はおしまい! 早く、コンサート会場に行こう」
離れの鍵を閉めて、紡が事務所の門扉の方へと歩き出す。
杏珠も鼻から息を小さく漏らすと、紡の後を追った。
◇◇◇
コンサート会場は驚くほどの人混みで、ごった返していた。
受付を済ませた紡と杏珠は、銅本姉弟の演奏会が予定されているメインホールへと向かっていたが、紡は周りのたくさんの人々から一身に受ける注目に耐えかねていた。
「やばい! 見て、あの人……日本人じゃないよね? めちゃくちゃカッコイイ」
「すご、銀髪にも見えない? 綺麗」
「背、でっか。足も長すぎない?」
「隣にいるの、彼女かな?」
通りすがる全ての人々が、杏珠を振り返り、口々に小声でざわめく。
それを何とも思っていないのだろう、いつも通りの無表情でいる杏珠の横で、紡は密かに溜め息を吐いて、この居心地の悪さに何となく、懐かしさを覚えていた。
(やっぱり杏珠って、相当目立つ。ヤクザなのに……瑠璃や玻璃と一緒に居る時と同じ感じがする。私は、違う世界にいるんだな)
紡は改めて、杏珠が人並み外れて美しい人なのだということを思い出した。
そんな中でも、二人はようやくメインホールの出入り口に辿り着く。ホールの中に入れば、多少はこの居心地の悪さからも解放されるかと一人ほっとしている紡は、ホールに入ろうとする。だが突然、杏珠が出入り口の脇で立ち止まってしまったので、紡は首を傾げながら杏珠を振り向く。
「杏珠? そんなとこで何やってるの。入ろうよ」
「……いや。おれがいない方が、紡さん落ち着くかと思って。こんなに大勢の堅気の人間がいる中であれば、半グレ共も寄り付かんでしょうし。紡さん、お一人で楽しんできてください。おれは紡さんの邪魔にならんところで、見張ってますから」
どうやら、紡が居心地悪そうにしているのを悟られてしまったらしい。
紡は一瞬眉を下げて視線を漂わせるが、すぐに小さく噴き出して、杏珠の腕を取った。
「バレたか。でも、こういうの実は慣れてるから大丈夫。だから、一緒に行こう」
「やけど……」
「私が杏珠と一緒に、瑠璃たちの演奏聴きたいから。あの姉弟の演奏はトびますぜ? ほら、行こう」
紡は軽く笑って、冗談めかしながら杏珠の腕を引いてホールの中へと入る。
(それに、見てみたい。杏珠みたいな……今は眠れる〝天才〟が。大衆に認められた正真正銘の〝天才たち〟の世界を知ってしまったら、どうなるのか。この目で、確かめたい)
そんな本音を胸の内に隠し、紡は杏珠を「天才たち」のもとへといざなうように腕を引く。腕を引かれる杏珠は終始、何か言いたげな顔をしていたが、結局口を噤んだまま紡の後についていくのだった。
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