第16話 金木犀は普通に生きたい
駐車場へと入り、杏珠の車の前までようやく辿り着いた二人。
走って来たはずだが、紡も杏珠も息を切らしてはいない。ただ、紡は無意識に張り詰めていた緊張が解けて、思わず車のドアの前で座り込んでしまう。
「はあ……びっくりした……」
紡は思わず大きく溜め息を零す。そんな紡に近寄って来て、杏珠が紡のすぐ目の前に跪いたので、紡は小首を傾げて見せた。
「紡さん。足、見せてもらってもよかですか。痛めとったら良くないので」
「え。いや、大丈夫だと思うけど……」
「念のためです。見せて」
またもや有無を言わせないような声色で杏珠が迫るので、紡はその勢いに負けて小さく頷いた。
「痛かったら言ってください」
「うん」
杏珠は慎重な手つきで紡の足首に触れて、具合を確かめていった。そんな作業をしながらもふと、杏珠は小さく息を吐いて紡に呟く。
「あの蹴り。一目見てわかりました。紡さん、えらく強いとですね。正直、驚きました」
紡は素直に「驚いた」と零す杏珠を珍しいと思うと同時に、やはりその話が来たかと、苦笑を漏らす。
「まあ……心得はちょっとだけ。私を育ててくれたじいちゃんが元刑事で、格闘術得意だったから。護身用にって、物心ついた時から叩きこまれてた」
とはいっても、教えられたのは「手を使わない」足技だけである。祖父の雪繁は、決して手を使った格闘術は教えてくれなかった。しかし、それでよかったのだと、紡は今では心底思う。音楽をするのに、怪我をして手が使えなくなっては非常に困るし。
それに紡は、なるべく暴力に触れたくなかった──
なので、紡が心得ている格闘術は、紡自身が危機的状況に陥っても咄嗟に使おうとは思えず。紡以外の誰かを守るために使うよう、身体が勝手に覚えているようでもあった。
そんなことを考えながらも、紡は「そういえば」と、杏珠と初めて出逢った時のことを思い出す。
「杏珠と初めて会った時は、刃物とか拳銃とかが急に出てきて。流石にびっくりして咄嗟に身体動かなかった……杏珠は、命の恩人だ。遅くなったけど。あの時は助けてくれてありがとう」
それは、紡がずっと言いそびれていた、どうしても杏珠に伝えたかった言葉だった。
杏珠は一瞬、紡の足に触れる手をピタリと止めるが、すぐにいつも通りに戻って、小さく鼻から息を漏らす。
「……気にせんどってください。前にも言った通り、おれは道具です。やけん、そういう言葉はおれなんかには要らんとですよ」
「またそんなこと言う。杏珠は道具じゃないって」
呆れて半眼になる紡。杏珠はそんな紡へと、一つ間を置いて声を掛ける。
「ただ……」
紡の足へと、割れ物でも扱うように丁寧に、柔らかく、やさしく触れながら。杏珠は紡を真っ直ぐ見つめた。
「あんまり無茶は、せんで。人間って、簡単に死ぬもんです。身体、大事にせんと──紡さん、ピアノ弾くんだから」
「……うん」
紡は思いがけず、目を逸らして小さく頷く。
きっと杏珠は、紡を「ヤクザの駒」として見て、そんな心配しているようなことを言っているのだ。
だから、いつもより杏珠の声が少しだけ柔らかくなっているのも。やさしく聞こえるのも。
絶対に全て、気のせいでしかないのだと。
紡は何度も、己にそう言い聞かせた。
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