第6話 金木犀の用心棒

 紡は自宅の廊下で座り込んでいた。

 視線の先ではベランダに続く窓が開け放たれ、カーテンが夜風に吹かれてふわりとクラゲの如く浮いている。


 夜明けの、青白い光が差し込んできた。みるみるうちに、淡い光に照らされて、長身の男の姿が浮かび上がってくる。

 髪も目の色も、銀色に染められたような男だった。

 銀色の男から、仄かに甘い香りがした気がする。紡が一番好きな、秋の季節に咲く花。そんな花の香りによく似た匂い。


『金木犀』


 不意に、銀色の男の口から、紡のもう一つの名が呼ばれた。紡は目を丸くして、銀色の男を見つめる。


『このままだと、死んでしまう——金木犀は』


 どういうことだと、紡が呟く。すると、銀色の男が、紡を真っ直ぐ指さしてきた。


『おまえが、殺すんだ』


 途端に、銀色の男の姿がぐにゃりと歪んだ。


◇◇◇


「はっ……! はぁ、は……」


 紡は息を切らして、敷布団から飛び起きた。辺りを見回すと見慣れない和室の部屋だったので、ここはどこだと一瞬困惑したが——すぐに、紡は先日の出来事を思い出して、再び敷布団の上に寝転んだ。


 何か、不穏な夢を見ていた気がするが。内容はよく思い出せない。

 紡は細く息を吐き出して、寝返りを打った。


「あれから二日、か……」


 次晴との話が終わった後。紡は烏藤組事務所のそばにある離れへと案内され、これからはこの離れで過ごすこととなったのだ。

 紡の用心棒となった杏珠によると、紡のもともとの自宅は雇った人間に引き払わせ、荷物もじきに届くだろうとのこと。そしてこれからは、外に出る際等は片時も離れず、杏珠が紡の身辺警護を務めるという。


(片時も離れずに、って……歌の収録にスタジオ行きたいんだけど。流石にヤクザに歌を聞かれるのはちょっとなあ……)


 紡がうんうんと唸っていると、玄関の戸が叩かれる音が響いてきた。この離れに来る人物は一人——銀木しろき 杏珠あんずしかいない。紡は慌てて布団を片付けると「はーい!」と声を上げながら玄関に向かった。


「これで、お嬢の自宅にあった荷物は全部のはずです。どうですか」

「あ……はい。大丈夫、です。全部あります。運んでくださってありがとうございます、えっと……銀木、さん」


 杏珠あんずは紡の荷物を全て離れまで持ってきてくれたうえ、整理まで手伝ってくれた。

 座敷の畳に美しい姿勢で正座する杏珠に、紡は何となく気まずい思いをしながらも、小さく頭を下げた。すると、珍しく杏珠がぴくりと反応して、相変わらずの抑揚の無い低い声で紡に話し掛けてくる。


「何度も言ってますが、杏珠でよかです。おれのことは、使い捨ての道具と見なしてください。小難しい敬語とかも、おれには不要です」


 聞きなれない方言が偶に混じる言葉だが、それよりも、紡は杏珠の「使い捨ての道具」という発言が引っかかって、微かに眉根を寄せた。


「使い捨ての道具って。そんなこと……」


 紡の硬い声を、杏珠がすかさず遮る。


「じゃないと、おれが落ち着かんとです。お願いします、お嬢」


 杏珠が紡へと、深く頭を下げてくる。いよいよ根負けした紡は、仕方なく頷いて見せた。


「……わかった。じゃあ、杏珠。改めましてだけど、これからしばらくの間。どうぞよろしく……あと」

「はい。お嬢」


 紡は小さく息を吐いて、杏珠に眉を下げて見せる。


「それ。そのお嬢って呼び方……変えてくれない? 私も居心地悪いから、紡でいいよ」


「お嬢」と呼ばれると、如何にも「ヤクザの娘」という感じがして、紡はずっといたたまれない思いをしていたのだ。

 杏珠はゆっくりと頭を微かに上げると、一つ間をおいて、上目遣いで紡を見据えながら応える。


「……どうしても、ですか」

「うん。どうしても」


 紡の即答に、杏珠はまた俯いて、しばらく考え込むような素振りを見せる。そして、ようやく頭を上げたかと思えば、慣れないような声色で小首を傾げた。


「……紡、さん?」


「紡さん」そんな呼ばれ方は初めてだったので、何となく新鮮な思いで目を丸くする紡であったが、「お嬢」よりは幾分もマシかと、杏珠に向かって頷いた。


「じゃあ、紡さん。今日は何かご予定とかありましたか? 昨日の買い出しで、紡さんがご希望されてた食材とかは買い揃えられたと思いますけど」


 杏珠の言う通り、昨日は勿論杏珠と二人で、紡の一週間分の食料の買い出しに出かけていた。杏珠には「食事はうちの組のモンが用意します」と言われたが、流石に住居まで借りておいて食事まで用意してもらうのは気が引けたので、それは断った。


 買い出しはしばらく大丈夫だとして、紡が今一番行きたい場所はやはり——「金木犀」が投稿する歌動画を収録するためのスタジオである。

 紡は少し考えて、恐る恐る口を開いた。


「……杏珠はその。私の本職も知って……?」

「金木犀、さんですよね。まだ、歌の方は聴いたことなかですけど」

「ああ~。そりゃご存知か、うん……それで、金木犀の歌の収録のために、スタジオに行きたいんだけど……」


 紡がちらりと杏珠を見ると、杏珠は一つ瞬きをして、淡々と尋ねてきた。


「そこ。おれも一緒にいて問題ありません?」

「いやめちゃくちゃ問題ある」


 紡は今までの杏珠の行動を振り返って、脊髄反射の勢いで答える。

 杏珠が外に出た紡についてくるときは、いつも一定の微妙な距離を置いて、穴が開くほど紡を徹底的に監視してくる。そんな最悪に居心地の悪い状況で、いつも通り歌えるわけがない。


「でしたら、ちょっとその予定は先延ばしにしてもらえんでしょうか。紡さんを一人だけにはできんので」

「ですよね、はい……」


 杏珠の言葉に紡はがっくりと頭を垂れて、弱々しく頷いた。どうやらしばらくは、歌の収録はできないことを覚悟した方がいいらしい。


「それに……紡さんを襲ってきたあの半グレ共の連れの居所を、今朝うちのモンが割り出したようなんです。なので、紡さんにはしばらく、外に出ていくのは控えてもらう可能性が高い。すみませんが、そこんところよろしくお願いします」

「……そうなんだ。うん、わかった」


 それから一週間ほど。

 紡は烏藤組事務所の邸外へ出ることができなかった。

 杏珠の言っていた通り、どうにも紡を狙っていた半グレの一部を追っているらしい。事務所の人の出入りも激しく、夜には杏珠も頻繁に出かけているようだった。

 この一週間で、紡が最も多く接した人間はやはり杏珠であったが。改めて紡は、銀木杏珠という男はどうにも、掴みきれない人物だと思った。


 杏珠は定期的に離れを訪れて、紡の体調などを聞いてくるが、それ以外の会話はしようともしない。まさに、監視・観察されている動物の気分であった。

 そのうえ杏珠は、その美しい顔に一切の感情が出ることがない。というより、紡は未だに一度も表情が表れるのを見たことがなかった。

 人形の如く、全く表情が変わらない。そばには寄ってこないが、紡の近くに現れた時は常に紡の視界の端にいる。紡には敬語を使って、下手に出るような行動をとるが、何となく紡には、杏珠は紡を「人」として見るような目をしていない気がした。


 事務所に籠りきりの八日目の朝。紡は先ほど離れを訪れて、すぐに事務所の外へと出ていった杏珠の不気味にも思えてきた背中を思い出し、内心で小さくぼやく。


(本当に……何考えてるのか、全然わからないヤクザ)


 紡の銀木杏珠への印象は「わからない」というあやふやなものから始まった。

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