第7話 金木犀は理解不能
事務所に籠りきりの、八日目の深夜。
もうすぐ午前二時にもなる夜更けであったが、紡は未だに起きて、とある人物と電話をしていた。
『マスターも心配してはったで? 金木犀の動画投稿も止まっとるし……何かあったんやないかなって』
「ごめん、心配かけて。急遽引っ越しすることにして……そのドタバタで、動画投稿もできてないんだ」
電話の相手は、紡の幼馴染みでもあり、数少ない親友の一人である女子大生であった。どうやら、一週間ジュピターのバイトを休んでいることから心配して、連絡をくれたらしい。
そうして、しばらく親友と談笑していた紡は、ようやく通話を切って息を吐くと、小さく笑みを浮かべた。
(マスターや
紡を心配する親友とは、明日ジュピターで会う約束を交わした。ちょうど、明日からは外出してもいいという話をあらかじめ杏珠から聞いていたので、マスターや親友たちを安心させるためにも、ジュピターに行くべきだと紡は前々から思っていたのだ。
紡は大きく伸びをして、再びスマホ画面に目を移すと、もうすでに午前二時十五分を回っていた。
「二時過ぎか……でもまだ、眠くないな」
このまま布団に入っても、しばらくは眠れないだろう。
それならば外の風にでも当たりながら、曲作りのネタでも考えようかと、紡は立ち上がって玄関へと向かった。
「……」
玄関が見える位置にまで来て、紡はピタリと動きを止める。そのまましばらく、少し先にある玄関の引き戸を凝視していたが、細く長い息を吐き出し、半眼で首を横に振った。
そして、スリッパを脱いで外用のサンダルを足に引っ掛けると、玄関の鍵を手早く開けて、勢い良く引き戸を開け放った。
「何やってるの」
「……息止めて、完全に気配消しとったとに。よく気づきましたね」
「勘はいいんだ。私。ていうか息止めるのやめな? 死ぬよ」
玄関先には、杏珠が息を潜めて立っていた。
しかも、如何にもヤクザなスーツ姿は、常人なら悲鳴を上げたくなるほど血塗れである。
しかし、紡は常人の感性は持ち合わせていないうえ、昔から祖父に激怒されるくらいには喧嘩をしていた悪童であったので、血は多少見慣れている。
紡は半眼で杏珠を見上げて、問い詰めた。
「いつからここにいたの?」
「事務所に帰ってきてから、ずっと」
「つまり?」
「一時間くらい前から」
紡は呆れて目を瞠る。紡が口を開く前に、杏珠が小さく頭を下げた。
「すみません。紡さん、まだ起きとったのが気になって。大丈夫ですか?」
(いや何で私が起きてるの、外からわかるんだ。それに……)
紡は「まただ」と、内心で呟いて唇を嚙んだ。
杏珠の抑揚の無い声が、微かに険を帯びている。つまり、杏珠は下手に出ているようで、紡を何かしら疑っている、または探りを入れようとしているのだ。
紡はスマホの通話履歴を杏珠にかざして見せる。
「友達と電話してた。急に行方くらましたから、心配されてて。引越ししたんだって話をね。……杏珠が思ってるような、余計なことはしてないつもり」
おそらく杏珠は、紡が警察にでも連絡していないだろうかとか、そんなことを疑っていたのだろう。
すると杏珠は一つ瞬きをして、いつもと何ら変わらない声色で紡に応えた。
「それなら助かります。紡さんも気づいとる通り、紡さんは
どうやらこの男は、相当人間観察がお得意らしいし、噓を吐くことを知らないらしい。
紡は目をすがめて、杏珠を見上げる。
「……はっきり言ってくれるね。まあ、私はヤクザは信用しないけど、下手打って死にたくもないから。用心はする」
「それでいいです。ヤクザは信用せんのが正解——紡さんは頭がよかけん、本当に助かる。紡さんなら何があっても、おれという駒を上手く使って生き延びれるやろうから」
「……」
紡は思わず、片手で長い黒髪を搔き乱す。
杏珠の発言がいちいち気に喰わないし、何だか無性に癇に障るような気がするからだ。これも杏珠というヤクザの計算の内なのだったとしたら、嫌な男だ。
紡は一つ大きく息を吐くと、つまらない話はもう止めだと、杏珠の血塗れのスーツを指さした。
「それで、私は大丈夫だけど。杏珠はどうしたの、それ。血みどろじゃん」
「あ。そういえばちょうど、紡さんを狙っとった半グレ連中を一通り片付けられたとですよ。まあ、すぐにまた湧いてくるやろうけど」
「大丈夫なの?」
「はい。連中をぜんぶ半殺しにしたところで警察来たんで、殺してはなかですよ」
「いや、そっちじゃなくて! 杏珠は大丈夫なのかって、聞いてるんだけど。その血、怪我とかじゃない?」
紡の言葉に、一瞬わけがわからないという風に首を傾げた杏珠だったが、すぐに意図を察したようで首を横に振った。
「おれの血じゃないです。あと、おれのことは気にせんでください。いちいち道具の心配しとったら、面倒でしょ」
「……怪我してないならいい。だけど、いちいちうるさいのは杏珠の方」
紡が眉根を寄せて、杏珠を睨むように見上げる。
「私は杏珠を道具だとは思わない。だから、いちいち道具道具、言わないで。あと、杏珠が何と言おうが、私は私が嫌だと思ったヤクザの言うこと、聞かないから」
「……」
そこで、杏珠は大きく目を見開き、微かではあるが初めて表情らしい表情を見せた。それに驚いた紡も、釣られて目を丸くする。
「……なに。どうかした?」
「いえ、何でも」
次の瞬間には、杏珠の美しい顔はいつも通りの無表情に戻っていた。
そして杏珠は、紡へと軽く頭を下げる。
「では、おれ行きます。
そう淡々と言い残して、杏珠は事務所へと行ってしまった。
紡は何だか、杏珠と話しただけでどっと疲れたような気がして、閉めた玄関の引き戸に背中を預け、ずるずるとその場に屈みこむ。
そして、地面に滴り落ちている、杏珠が被っていた血を見下ろして、小さく呟いた。
「……ヤクザ、わからん」
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