第10話 友達候補
朝は、一日において弟が最も無防備になる時間帯だ。弥隼は布団の上でだらだらのゼリーになっている朔矢の肩をしゃらしゃらと揺する。それでも目を覚ます様子がないのでタオルケットをめくってやると、魚をくわえたペリカン柄のパジャマの隙間からまっすぐな鎖骨がちらりと覗いた。
「朝だぞ、起きろー」
「ふぁあい……」
重そうな瞼を擦りながら廊下の壁を這うように進む朔矢。彼はそのままリビングに到着すると、ソファーに沈み込み、またゼリーに戻った。
「ほら、昨日のカレー。こぼすなよー?」
「ふぬぅん……」
深めの小皿によそったカレーライスを受け取った朔矢は、ゆっくりと顎を動かしながらスプーンを口に運ぶ。
自室に戻り、空気を吸うためだけに窓を開けた。そのままクローゼットの中にかけてある制服をつまんで、寝巻きを脱ぐ。二日目のスカートの感触はまだ新鮮で、履いているだけで防御力が90%くらい減ってしまう特殊効果が付与されていた。
「にーちゃ……ねーちゃん、似合ってるよぉ」
スカートを纏ってそそくさと家を出ようとする弥隼を、朔矢が呼び止めた。この姿をじろじろ見られていると弟相手でも精神がおかしくなりそうなので、さっさと出て行きたいのだが。
「い、いってきまーすっ……」
「ねーちゃん、いってらしゃい」
(しかし……やっぱ外に出るの慣れないな……)
秋風に揺れるスカートをリュックサックの下ではさみ、伸びをしながらスッキリとした空気を吸い込む。そうしていると脳内に酸素が巡り、それと同時に女子制服の恥ずかしさもより強く沸きあがってくる。
弥隼は肉体こそ女性だけれど、髪形はまだ男の時と変わらず短め。女の子のショートヘアに見えなくもないくらいの長さだがやはりアンバランスな風貌をしているので、周囲の目線が余計に気になってしまう。
(髪がのびるまでは我慢か……)
肌寒い通学路だった。冷えたブロック塀の奥からは縮れた血管のような幹が深い青の葉を垂らしていて、そのおひざもとでは紅い実がいくつも踏みつぶされていた。今日は静かな時間帯に登校できるように早起きしたのだが、それでも周囲には人間たちの目が少なからず存在していて、それを意識するとどうしても胸が縛られてしまう。隣に知り合いの一人でもいてくれれば少しはこの胸も楽になるのだろうけど、唯一の心当たり(吉田)は昨日のように無邪気に駆け寄ってはこないだろう。というのも、昨日の帰り道で弥隼は吉田に怒りをぶつけたまま別れてしまったのだ。だからもし今吉田に見つかっても気まずい空気が流れるだけだろう。
(ま、別に一人で大丈夫だけど……)
と、ため息をつこうとしたその時。右の曲がり角から、強烈な勢いで足音をばたばたと鳴らしながらこっちに近づいてくる存在がいた。
「待てーっ!ゆづきゆづきゆづきゆづきーっ!」
「……は。」
曲がり角の向こうから、耳までかかった髪をふぁさふぁさと揺らしながら突進してくる少年がいた。彼はそのまま減速することなく弥隼を追尾するように高速で移動し、ついには激突した。
「おまっ……なんで……」
弥隼の体に突っ込んで目を回しながらふらつく少年。彼は、吉田だった。
「なんでって……トモダチなんだから一緒に登校するのは当たり前じゃん?置いてくなよー」
「そういうことじゃなくて、昨日喧嘩したのによくそんな陽気に出てこれたな、ってことを言いたいんだが」
「ふぇ?喧嘩なんてしたっけ?誰と?」
「あー……そういう感じか」
吉田の空気の読めなさを見くびっていたことを思い知り、呆れ果てて倒れそうになってしまう。昨日は吉田のトチ狂った貞操観念を聞いてついカッとなってしまったのだが、自分の怒りは随分と軽く受け止められていたようだ。感情的になった昨日の自分の言葉が黒歴史となって空に飛んでいく。
「喧嘩というか……別れるときに怒っただろ? 結構真剣に叱ったつもりだったんだが」
「あ、確かに。じゃあ、柚月はもう僕と一緒にいたくないってこと……?」
そうやって喉を絞るように言った吉田の目が、急激に潤んでいく。そして餌をせがむ子犬の顔になった彼は、弥隼に上目遣いを送ってきた。
「ななななんでそうなるっ……あーもうわかった。はぁ、昨日のことは忘れていいよ」
「なんだ、びっくりさせないでよー」
この上目遣いをされてしまうと、なぜだかうまく言葉がでなくなってしまう。確かに吉田のクラスでの境遇には同情の余地があるのかもしれない。でも、それを加味しても彼の前に立つと過剰に萎縮してしまう気がする。
弥隼はコミュニケーションにおいて、誰かを傷つけるのが怖い、という感情をほとんど知らずに育ってきた。あるいは弟に対してだけその感情を持っていた。人の痛みを気にしないどころか、むしろ気に入らない人間がいたら痛めつけることを正義だと思っていた。仮に友好な仲だったとしても、多少は鞭を構えて接するべき、というのが弥隼の持論だった。だからこそ、吉田を傷つけまいとする今の自分の感情が理解できないのだ。
「なぁ吉田、もうすこし人の心とか考えろよ?だから嫌われるんだ」
「んー、治せないよ。それ何度も言われてきたけど、逆にどうしてみんな当たり前に人の気持ちがわかるのかなー? だから、嫌なことあったらはっきり言ってね。これからもぼっち同士仲良くしよう?」
「人任せかよ。てか、俺はもうすぐぼっちなんて脱却してやるし」
「え、柚月友達作っちゃうの?」
実は弥隼は、昨夜ある決意をしていた。それは“女子生徒として友達を作る“という決意だった。いつまでも男の時の観念に縛りつけられるのではなく、女社会に馴染む経験を積んでいかないとこの先の人生をまともにやっていけないと感じたのだ。元不良である自分を受け入れてくれる人間は少ないだろうけれど、それでも友人と呼べる人物が吉田だけな今の状況はまずいと感じていた。
「友達作るのなんて人の勝手だろ」
「でも、みんなにビビられてるんでしょ? 無理なんじゃなーい?」吉田はどこかシニカルな笑みを浮かべる。
「るせっ! 俺はお前と違って人の心が分かる。友達なんてすぐ作れっからな」
「ほー、人の心わかるの? じゃあ、今なに考えてるかあててみてー」
「お前の思考なんて読めるかっ」
「えー、購買のプリンってコンビニで買うよりもちょっと高いよなぁ、って考えてたんだよ」
そんなん知るか、と心の中で舌打ちする。吉田との会話はいつも平行線で、本当に噛み合う気がしない。彼のそういった個性こそが、クラスメイトに無視されている一番の原因なのだろう。彼とだけコミュニケーションをする生活を続けていたら自分も吉田の一部に吸収されて変人になってしまうような気がする。
「それで柚月や。友達になりたい相手とかはいるの?」
「えと、
「柚月……顔で選んでないよね?」
「ちがうわ」
「そういえば、水上さんといえばたまに僕にも話しかけてくれるよ?」
実は、弥隼が水上と友達になりたいという考えにはある一つの理由があった。それは弥隼が停学になる前に彼女のある行動を見て一方的に信頼を抱くようになったからだ。だからこそ、弥隼が他の誰でもない彼女と友達になることはある一つの特別な意味を持つはず。吉田はそんな弥隼の考えを知る由もなく、呑気に腕を背中で組んだまま鼻歌を鳴らす。
「ま、いーんじゃない? せいぜいキモがられないといいね」
「ふん、何もわかってないくせに」
「えー? なんか隠してたりするの?」
「お前は気付かなくても幸せだからいいんだよ」
弥隼はしたり顔で声を出さずに笑いながら、吉田のことを見下すように腕を組んだ。しかしスカートがめくれてしまうほどの強風が吹いた次の瞬間、弥隼は「ひゃっ」と叫んで怯えるように吉田に身を寄せるのだった。
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