第14話 弥隼の過去②

弥隼の通っていた小学校は山に面していて、それに付随する大自然を敷地としていたため、ふつうの小学校よりも数倍広い面積を有していた。学校の敷地内にあるのが『かしのき森』だ。文字通り樫の木が沢山生えているからその名がついたのだろう。暗く、そして深くそびえるその場所は、少年の心を宿していた弥隼と理人にとって宝島同然に映っていた。


「理人、そこ濡れてるから気をつけろ」


「うん」


休み時間中、子供だけでかしのき森へ立ち入ることは禁止だ。生徒の安全を確保するため大人の目が届かない場所には近づけられない、という至極真っ当なルールだった。ただ、かしのき森への道がある校舎裏は人通りも少ないため、大人の目から逃れて簡単に森へと辿り着くことができた。


弥隼はこうやって自然の中を冒険するのが好きだった。彼は蟻の巣があるだけで三十分は時間を潰すことができる少年だった。それに、ルールをやぶっている背徳感までもが良いスパイスとなって弥隼の心臓を心地よく刺激するのだ。そして理人も、この『冒険』の快楽をすぐに理解してくれた。


森は一日ごとに別の世界を見せてくれる。手足は虫刺されでいっぱいになるけれど、どこまで探索しても尽きない森に飽きることはなかった。朽ち木をひっくり返すだけで新しい発見があるし、疲れた時はただぼーっと空気を吸ってるだけで癒してくれる。一度だけ狸を見つけた時はふたりで飛び上がった。


そうやって、いつものように理人と森の中を探検していたある日。


「お前ら、そこはやめておけ」


木々の隙間から練れた男性の声が通り抜け、その瞬間弥隼の背骨がびくんと反応し、まっすぐになった。


声の発生源を確認すると、青い森林の奥から作業着を着た男性教師が弥隼たちを見ていた。彼の名前は覚えていなかったが、高学年を担当しているベテランの教師だということは知っている。


(どーする? 逃げるの?)


(いや、こういう時逃げたらもっと怒られる)


弥隼は観念してため息をこぼしながら、怒鳴られて叱られるのを覚悟して「ごめんなさい」と言った。しかしその大柄な教師は木々をかきわけ、疲労を感じさせる声色で話しかけた。


「怒らないよ。冒険するのはいいことだ」


「……えぇ? 怒らないってどういうことですか。だってここ入っちゃいけないんじゃ──」


「子供の遊びってのはちょっとくらい危険を冒すのがちょうどいいんだ。君たちのような子がいなきゃ日本にノーベル賞は生まれない」


ノーベル賞なんて全く興味ないですけど、と弥隼は心の中で返事をした。


「でも、その先にはオオスズメバチの巣がある。マジで死ぬから近づいちゃダメだ」


教師がそう言って指さした先は、木々がより鬱蒼と並んでいる場所だった。青い葉で込み入っているので教師の言っていた巣がどこにあるのかは確認できなかったが、子供ながらに恐怖心と探求心をくすぐられる景色だったと記憶している。


「あと、俺がこんなことを言ったっていうのは他の先生たちには秘密な」


昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえると、次の授業に間に合うよう弥隼たちは駆け足で教室へと戻っていた。


「あの先生、なんかヘンだったね」


「なんか、テキトーな先生だったな」


そんな会話をしながら、二人は薄暗い森を歩いていく。


去り際、例の教師は「ハチじゃなくても、派手な色の虫には気を付けな」と言っていた。どうやら蜂のような目立つ色の生物はその見た目で自分に毒があることを周りの生物に伝えているらしい。警戒色というやつだ。


理人はそれを聞いて「なんで毒があるからって目立つ色になったの? みんなを傷つけたくないからそーいう進化をしたってこと?」


教師はそれを聞いてしばらく悩むと、顔を上げてから顎を触って言った。「俺は専門家ではないから詳しいことは知らんが」


彼はあごひげを気にしながら続けた。


「蜂が望んで派手な色になったんじゃなくて、その逆で人間が蜂のような危険なヤツの色を”派手な色”だと認識するようになったのかもしれないな」


弥隼は昆虫の生態だとかについての興味はあまりなかったが、その言葉は今でもなぜか印象に残っている。


かしのき森での冒険は飽きることがなかった。それほどまでにその場所は広く、弥隼の好奇心を満たし続けた。そしてそんな生活を続けていくうちに、ふたりは親友と呼べる存在になっていた。


これが金森理人と過ごした青春だった。


***

そして弥隼は、ある一人の人物にそんな青春を狂わされることになる。

***


水泳の季節になると、涼しい日は寒い日へと変貌する。弥隼はプールサイドでタオルにくるまりながら唇を青くする理人にもう一枚のバスタオルを貸してやっていた。


「弥隼、こんな寒いのになんで泳げるんだ」


「たくさん泳いでたらあったかくなるもんだ」


「全然共感できないな」


体育の授業において、弥隼の横に並ぶ人はいなかった。授業で課せられた水泳の目標もすぐに達成してしまったので、かわりに高学年用の目標にチャレンジするほどだった。そんな彼の泳ぐ姿はクラスメイトの憧れでもあったため、一種の見せ物としてプールサイドを賑わせていた。弥隼自身もそんなふうに見られていることがまんざらでもなかったので、いつも意気込んで水面に飛び込んでいた。


「おい、お前」


ある時、プールへと歩き出す弥隼の背に向けて声を荒げる人物がひとりいた。


「……呼んだか?」


弥隼が振り返った先には一人の少女がいた。焦げ茶色の短髪で、身長がクラスで最も高いその少女は鋭い目つきで柚月を睨みながら、言った。


「お前、アタシと勝負しろっ」


彼女の名前は、華淑かすみ


総合の授業で、自分の名前の由来を両親にインタビューして新聞にまとめ、発表する機会があった。華淑というその少女は文字通り『華やかで淑やかな女の子に育ってほしい』という願いをこめて名付けられたそうだ。


ただ、実際にその少女は両親の想いと正反対に育つことになる。


「もしアタシが男に産まれてたら、お前なんかより速いのに……」


弥隼に敗北した少女はそう呟きながらプールサイドで水玉をぽたぽたと垂らし、息を切らす。


「華淑、3年生で25メートル泳ぎきるってだけですごいよ」


そう言って弥隼は握手を求める。しかし、佐々木華淑は舌打ちをし、そっぽを向いた。彼女は弥隼の前ではいつもこのような態度だ。


男勝りという言葉を過剰なまでに身に着けた少女だった。ただ、彼女にも協調性のかけらはあった。彼女は弥隼以外にはここまで高慢な態度をとらないし、友達もそこそこいた。


ただ彼女には女友達はほとんどいなかったようだ。単にそりがあわなかったのかな、と思う。その裏返しに、男子グループにはそれなりに溶け込んでいた。華淑は身体能力が高いため昼休みには男子のサッカーに交じり、そして男子顔負けの活躍をしていた。放課後も弥隼の属してないグループで集まることが多かったようだ。


華淑は自分よりも運動のできる弥隼をライバル視し、弥隼との縮まらない距離を性差のせいだと考えていた。だからこそ彼女は誰よりも性差のことを憎んでいた。


、と歪んだ目で彼を見つめていた。

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