第8話 決意なんて言葉使ったらクサいかもしれないけど

「兄ちゃん、怪我とかないよな……?」


「あぁ、大丈夫……」


弥隼が倒してしまったダンベルや重りが、床に散乱している。それをせっせと片付けるのは弟の朔矢さくや。大きなパンダの顔が刺繍されたTシャツと、肌寒くなってきたこの季節にやや不相応な短パンを履いている。彼は小学五年生という年齢からイメージされる通りの好奇心旺盛でイタズラ好きな少年。ただ、小五という年齢の割には大人びているところがあり、人の気持ちを考えられる人間で、いつまでも精神年齢が小三のままの自分とは大違いだ、と弥隼は評価している。


弥隼は朔矢のことをかわいがり、彼の前ではかっこいい兄だと思われるようにいつも気張っていた。しかし、弥隼が性転換手術をしてから会話はめっきりなくなってしまった。


(てか俺……もう兄ちゃんじゃないし……)


女になってから、弥隼は弟に合わせる顔がなくなってしまったのだ。かつて頼れる兄だったはずの自分がこんな姿をしているのを見せることが嫌で、朔矢を避けるようにしていた。そんな事情もあって、弥隼が朔矢と話すのは四日ぶりのことだった。



「朔矢、俺も片付けるよ…………」


弟が働いているのに自分は部屋の隅でじっとしているという不甲斐なさに耐えられなくなった弥隼がダンベルに向かって右手を伸ばすと、朔矢はその手首をぎゅっと掴む。


「だめっ」


「へ?」


「兄ちゃんってば。怪我しちゃうから、そこで休んでていいってば」


「で、でも……俺だって役にたちたくて……」


「一人でいけるって!腕の力、弱くなっちゃったんでしょ?危ないから、さ?」


朔矢の放った言葉が胸に突き刺さり、弥隼は黙って「うん……」とその場でうなずいてしまう。弥隼のそんな物悲しそうなオーラを察したのか、朔矢は「わかった、じゃあこうしよ」と苦笑いする。


「兄ちゃんや。オレの代わりに、台所でカレー作ってきてよ?」


「カレー?」


柚月家の両親は共働き。よって平日は弥隼と朔矢がかわりばんこで料理当番をすることになっていた。きょうは朔矢が夕食を作る日だったのだが、今の複雑そうな顔の弥隼が少しでも気分転換できるようにと、それを任せることにしたのだ。


「わかった……。任せといてくれ」


弥隼はどこか魂の抜けた返事をして、部屋を出ていく。


(朔矢に気を遣わせちまった……兄失格だなぁ)


そうやって自分を責めるけど、でも一人で仕事をする口実を得られて弥隼は少しほっとしていた。


台所に着くと、野菜室の中から人参と玉葱を、冷凍庫から鶏むね肉を取り出し、レンジで解凍して刻んでいく。


弥隼は料理のスキルがあまり高くないので、具材に火を通す順番などは良く知らない。ただ切った具材を全部水にぶちこみ、火にかけるだけが能だ。そんな弥隼が作っても美味しくなるのだからカレールーはすごい。


台所に椅子を置いて、ぐらぐらと煮える具材たちを眺める。こうやって見ていると、具材に攻撃し続けているみたいでなんだか気分が晴れてくる気がした。このまま繊維がほどけてべちゃちゃになるまでいつまでも煮込み続けたくなってしまう。


(さっさと気持ちの整理して、ちゃんとした人間にならないと)

煮え続ける具材を菜箸でつつきながら、弥隼は一息ついていた。




「兄ちゃんや、片付け終わったよ」


しばらくしてから廊下のドアがゆっくり開いて、朔矢がひょっこりと顔を覗かせた。


「ありがと、手間かけてごめんな」


「いんだよ。カレーはどんな感じ?」


「あと20分くらい煮込んだらルー入れて完成だと思う」


「ほうほう」


朔矢は人参と玉葱と鶏肉が煮えた鍋の湯気をすんすんと嗅ぎながら「湯気の匂いだ」と独り言をつぶやく。

ぐつぐつと煮えたぎる鍋の音が、ダイニングキッチンに響いていた。


「ねぇ、兄ちゃん」


「……どした?」


「オレね、兄ちゃんの気持ち、わかるよ。いままで筋トレ頑張ってたのに、その筋肉を奪われちゃったんだもんね。悲しいよね」


朔矢は木製の椅子に腰かけ、手の甲をかりかりといじりながら弥隼の目を見て、言った。


「ごめんな、気遣わせちまって」


「いんだよ。あと、いろいろ落ち着くまでは俺の前では性別のこと、気にしなくていいからね。手術で大変だったんだから、学校少し休ませてくれりゃいいのにねえ」


「本当にすまない……」


「もう、なにー? なんでそんなに申し訳なさそーなん? オレ弟だよ?」


弟だからこそ、だ。

このまま俺は、朔矢に心配をかけてしまうようなダメな兄になってしまうのだろうか?朔矢だって今は優しいけれど、いつまでも俺のおもりを続けていたらそのうち呆れ果てて見限ってしまうかもしれない。


俺は変わらなきゃいけないんだ。今の俺はまだ”男”に縋り続けていて、失った自分の個性をいつまでも誇示したがっている。でも駄目なんだ。

もう俺は、前までの俺には戻れない。筋トレした意味も結局なかった。もう鼻につくやつらを拳でわからせてやることもできない。だから俺は……今の自分に置かれた状況の中で個性を見つけていかなくちゃいけないんだ。


どれだけ弟が優しくても、結局のところ人間はひとりで戦わなくちゃいけない。


負けを認めなきゃ、前に進めないんだ。


まっくらだった未来の姿がうっすら見えた気がしてきた頃、弥隼の中である一つの決意が湧いてきた。


「なぁ、朔矢」


「どしたの?兄ちゃん」

朔矢はさっきまでと違う弥隼の声色を感じ取り、真面目そうな顔になって弥隼の瞳を見つめた。


「……決めたんだ。俺、姉ちゃんになるよ」

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