第7話 弱くなりたくない

(逃げ切った。これでやっと一人になれたし、さっさと帰っちまおう)


弥隼はすんとした表情のまま方向を転換すると、また歩き始める。


吉田あんなやつに四六時中べったりくっつかれていては、気が持たないのだ。さっさと一人で家に帰って、ひとりぼっちでいるほうがずっとましに決まっている。


そう。隣に誰もいない、これが普段通りの道。

弥隼の知っている、かえりみち。

でも、なんでこんなにからっぽなんだろう。


大きくて綺麗な月も、川のせせらぎと共に聞こえる鈴虫の合唱も、いつもならその美しさに心奪われてしまうのに、今日はなぜかそれらは弥隼の心を全く動かさなかった。

月なんかを背負い込んでいる空が、やたらと憎くてたまらない。


すっからかん。タイルのオレンジのところを基準に、ロボみたいな歩幅で歩く。そしたら、ほんとうに何も感じることはなく、あっという間に自宅についていた。


女子制服を脱ぎ捨てて洋服棚から取り出したのは、ぶかぶかのジャージ。


手術のせいで体形は一回りちいさくなってしまったけれど、服を買いにいく気力はなかった。お店のレジに女物の服なんて持ち込んだら恥ずかしくて死んじゃいそうだし。


「はぅ……ああぁぅ……」

ベッドの上でころがっていると、今の自分の現実がフラッシュバックして途端に嫌な気持ちがいっぱいになる。


なにもしたくない。楽しいこと考えよう。楽しいこと考えよう。

でも、呑気にそんなこと考えてる場合なのか?俺って将来どうなっちまうんだ?勉強したほうがいいんじゃないのか?


普段ひとりごとなんて吐かないのに、うぅと喉が震える。

(だめだっ……こんな弱気でいるんじゃ……なんか気分転換しないと……)


弥隼は、気分転換のためにいつもしていることを思いだす。それは、上半身のウェイトトレーニングをワンセット。


(ウェイトトレーニング……?そうだった……)


筋トレ。それは男時代の弥隼の日課だった。強くなるため、男を磨くために汗を流すことが彼の気分転換になっていたのだ。でも、手術を受けてからそれをやることをすっかり忘れていた。というのも、性転換刑の際に筋肉が弱くなる注射を打たれてしまったから、今の弥隼は男の時のように体を力強く動かせないのだ。


お小遣いを頑張って貯めて買った筋トレグッズ。それもみんな、今の自分には使えなくなっているかもしれない。その不安に気付いてしまった彼の胸はまた、痛くなる。


自室のすみっこにあるプラスチック製の棚の中には、数種類のダンベルが無造作にしまわれていた。収集すること自体がなんとなく楽しくなっていたので、たしか8000円くらいは筋トレ器具のために使った記憶がある。


中学生にとっての8000円は、オトナの貨幣価値に換算すると約8万円に相当するのだ。


見るからに鈍重な、数十キログラムのダンベルたち。弥隼の目に映るそれらの器具の前に、細っこくなってしまった自分の手首がちらりと見える。

ホルモン治療の影響で、筋肉の発達を抑制された手首。あんなに筋トレをがんばったのに、今じゃ自分の腕はだいふくもち同然の柔肌に包まれている。


(5キロなら、さすがに持てるよな……?)


弱くなりたくない。だって強さは、今まで自分が自分でいられた理由。一番大事な個性だったから。


弥隼は衝動的にジャージの袖をまくり、一番軽い5キログラムのダンベルへと手を伸ばしていた。そして人差し指の先端が持ち手に触れると、鉛のような冷たさが手首から全身に広がっていく。


「ぐっ……」


弥隼はおもいきりダンベルを握りしめる。そして、だれていた右手の筋肉を緊張させていき、力をこめていく。しかし、つい先週まで軽々持ち上げていたその手ごたえは今や、大岩になっていた。力を強めてもびくともせず、腕の震えが増していくだけだ。


「くそっ……こんなものっ……」


胃の奥に圧迫感を覚えるほどに力みを強めたころ、弥隼はようやく手ごたえを感じた。いままでびくともしなかったダンベルの右半分だけが浮きあがりはじめたのだ。弥隼はしめた、と思いながらそのまま右手を上昇させていく。しかしダンベルが完全に地面から離れた瞬間、弥隼の体重は糸が切れたかのようにコントロールを奪われてしまい、千鳥足になってしまう。


「わっ、わわっ!?」


焦ってダンベルを元の位置に戻そうとするが、体幹が明後日の方向に行ってしまいそうになってしまう。弥隼は必死に重心を安定させようと、ふんばろうとする。しかし、その選択が凶とでてしまう。体の傾きが前後を三回往復した後、既に握力を維持することが限界だった右腕が反射的にダンベルを放してしまったのだ。空中に放り出されたそれは、筋トレ用の器具を収納していた引き出しに激突した。そして、その衝撃で中身がすべて床にぶちまけられてしまう。


ガタガタガタン!

いくつもの鉄のかたまりが床に衝突する轟音に耳を押さえながら、弥隼は部屋のすみっこで縮こまっていた。


「はぁっ……はぁっ……」


息を切らしながら、部屋の惨状を見渡す。棚が倒れて、床にはかつてお気に入りだった器具たちが無作為に、無惨に散りばめられている。

(……こわい)


弥隼が恐ろしかったのは自分の力がこんなにも弱くなっていたことを実感したから、だけではない。心がおかしいのだ。男の時はこれくらいじゃ恐怖なんてほとんど感じなかったのに、今の自分は大きな音がなるだけで心臓に電流が流れ、息が乱れてしまう。

弥隼の心がこのように繊細な反応を起こすのは、治療によるホルモンバランスの急激な変化が原因だった。術後現在の彼の心は普段よりもずっとストレスを強く感じるようになっており、頭痛や動悸が起こりやすい状態なのだ。


体が動かせないままの弥隼は、散らかってしまった部屋をぼうっと、腰をつきながら見つめる。そうしていると部屋の扉のむこうから誰かの足音がばたばたと聞こえ、その音を大きくしながらこちらに向かってくるのが聞こえた。そしてすぐ近くで足音が止まったかと思うと、次の瞬間部屋の扉が勢いよく開く。


「兄ちゃん、大丈夫!?」


腰を抜かして震える弥隼を見て必死に叫ぶ人物。彼は、弟の朔矢だった。

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