第6話 かえりみち
「俺、もう帰るけど」
日が沈みかけている窓の外の景色を横目に、弥隼は言った。
「ちょっと待ってよお、トイレだけ行きたいから終わるまで待っててー」
机に覆いかぶさった吉田はちいさな
(なんで一緒に帰るのが前提になってんだよ)
弥隼は心の中で小さく呟く。
「お前、女装してるからって女子トイレ行くんじゃないぞ?」
「わかってるよ」
吉田はそう言ってスクールバッグ片手に教室の扉を開け、「消失なう」と言って出ていく。
余談だが、弥隼のトイレ事情はというと、性転換後の元男子生徒は教員用の女子トイレしか使えないことになっている。
弥隼が足をぶらぶらさせながらぼーっとしていると、数分おいて扉がまた開き、吉田が戻ってきた。
彼は短めのスカートと黒髪のウィッグを揺らしながら「ただいま~」とあくびをする。
「ちょ、ちょっとまて!なんで女装したままなんだよ!せっかくトイレ行ったんだから着替えてくりゃいいのに」
「えー……?この服のまま帰るつもりだったんだけど、だめかなあ?」
吉田は人差し指をくちびるのしたにつけてこちらを伺うような表情をする。彼が首をかしげるといっしょに長い髪も揺れ、それが顔に纏わりつくのを薬指で気にしていた。
「お前っ……スカート履いたまま外出るなんて、恥ずかしくないのかよ」
弥隼は初めての女子生徒生活を終えた身として忠告を送る。
「え、はずかしいし、めっちゃ怖いよ?でも、その恥ずかしさを楽しむもんでしょ。耐えられなくなったら柚月の背中に隠れればいいしねー」
弥隼は呻きと呆れの中間のような声色で「えぇ」と漏らす。
「ふふ。僕ね、夢みたいなんだ。みんなにキモいって言われてきて、でも今日キモいって言わない柚月が学校に帰ってきて、柚月の隣なら大好きな服を着ても怖くないって思えるんだよ?」
吉田は机の上にひょいと腰掛け、自分の膝元を支点に頬杖をつく。
「あーもう、好きにしろよっ」
***
「てか、もしかしてだけどさ、柚月っていじめられてるの?」
既に暗くなりかけている、かえりみちの途中。吉田は唐突に切り出した。
「おまっ……今度はなに言い出すんだよ、急に……」
弥隼は突然の衝撃に顔をひきつらせて吉田を見る。
「いや……だって柚月さ、今日一日中、お腹が痛そうな顔してたじゃん?なんか、人に怯えてるみたいだった!」
吉田はそう言って、あははと笑った。
こういうノンデリなとこはほんとうにめんどくさいやつだ、と心の中で呟く。
自分が、いじめられてるだって?弥隼は胸の中でその言葉を反芻する。
弥隼は確かに一部の問題児たちには嫌な絡み方をされてはいる。だがそれは弥隼自身も問題児であるからであって、いじめのような一方的なものではないと自分の中で定義していた。
そもそも、弥隼はそれらの問題児たちから何を言われたって傷つかないし、気にしない。
弥隼はただ自分なりの正義を通すために喧嘩をすることが多かっただけで、彼らはそれ以降も根を引いて面倒な絡み方をしてくるだけだ。
(ってか、俺は強いからいじめなんてされないし)
「そもそも怯えてなんか、ないし!」
「うそつき。休み時間とかめっちゃ震えてたよ?」
「エアコンが当たって寒かっただけだ!」
「もう。強がりめー」
吉田はほっぺたに空気をためこんで、じろりと見つめてくる。
「じゃあ、いじめられてないなら、なんで柚月は
「そりゃ……みんな俺にびびってるから、話しかけられないんだよ」
弥隼は学校内で数々の問題行動を起こし、有名になっていた。穏便に暮らしたい多くのクラスメイトたちにとっては話しかけること自体が危険だと思われているようで、みんなそもそも目すら合わせてくれない。
「え?みんなは柚月にびびってるの?」
「そうだよっ!」
弥隼が語気を強めて言うと、吉田は「ふーん……」と考え込み、また清々しい笑顔を送った。
「じゃ、柚月も僕と同じなんだね」
「はぁ?同じ?なんで俺がお前と同じになるんだよっ!」
その一瞬、吉田は少しだけ寂しそうな顔をして、また笑いかけた。
「だって僕も、みんなにウザいとかキモいとかって思われて、無視されてるもん?
「そ、そっか……」
彼の含みのある言葉が直撃して、無意識にどこかよそよそしい態度になってしまう弥隼。
吉田の純度50%の笑顔が、夕日に照らされていた。柑橘色に反射する彼の素肌はとても眩しくて、それでいてどこかにピースが抜け落ちたパズルのような、不完全なシルエットを形成していた。吉田も吉田なりに、悩んでいるのだ。
弥隼は彼のことをただ漠然とバカだって見下してはいたけど、それでもこいつは人間なんだから寂しさは感じるし、人間関係にも悩む。不思議な生物の意外な生態を垣間見た瞬間だった。
「でも、柚月はみんなと違って無視しないでくれるもんね」
そう言われてしまったら、黙って頷くしかなかった。
人懐っこい吉田を犬に喩えるなら、弥隼は猫。ただ気まぐれで隣についてやってるだけのつもりだったのだが、弥隼のきまぐれは吉田の中で何か大きな意味を持っていたのかもしれない。
「だからさ、柚月?みんなに無視されても不登校とかになっちゃだめだよ?そしたら僕がまたぼっちに戻っちゃうから」
「そ、そりゃ……なるつもりはないよ……今のところは……」
こんな環境でも弥隼がまだ辛うじて不登校にならないのは、学力までもが落ちぶれたら本当に人生が終わってしまう気がしているからだ。弥隼は自習も苦手だし、塾に通わせてもらうほど両親に好かれてもいない。だから、学校の授業に喰らいついていって少しでもましな高校をめざすのが自分に残された最良の選択肢だと思っていた。
「将来はちゃんと稼げる大人になりたいし……勉強がんばらないとって思ってるから」
「ふーん……じゃあ柚月はお金持ちになりたいんだ?」
「そりゃそうだろ……」
お金持ちなんて、誰でもなりたいものだろう。そりゃあ、絵にかいたようなお金持ちになって豪勢で羽振りの良い生活をするのは厳しいだろうけど、それでも、休日は悠々自適に自宅でやすんで、漫画もゲームも好きなだけ買えて、サイゼで躊躇なくイタリアンプリンとポップコーンシュリンプを追加注文できるくらいの豊かさは持っていたいものだ。
「へぇ。でもね、勉強なんてがんばらなくても、お金持ちになる方法があるよ」
吉田は人差し指を空に突き立てて軽やかに微笑む。ただそんなことを言っても、おばかな吉田のことだからどうせネットに転がってる眉唾な情報でも鵜呑みにして言っているのだろう。とはいえ、一応聞いておこう。吉田はちゃんと正さないとまた、変な思想を持ち始めてしまうのだ。
「なんだよその方法って、言ってみろよ」
吉田は一歩前へと踏み出して弥隼の顔を覗き込みながら、言った。
「えっとね、
「せっ……せんぎょっ……!?」
「うん!都内で高収入のオトコ狙えばお金持ちになれるんだって!柚月、結構顔いいから磨けば光るよ」
「な、何言ってんだっ!」
すこししんみりとした会話の流れが突然逆流したので、弥隼は顔を真っ赤にして飛び上がってしまった。そして、彼の言った単語を脳内で何度も噛みしめる。センギョウシュフ、だって?そう、吉田の得意技・爆弾発言のおでましである。
「え?なりたくないの?専業主婦」
「そりゃそーだっ!だってそんなの……てゆーかっ……」
男なのにそんなんありえないわっ、と叫ぶ。
そもそも、結婚だとかそういうことについて考えるのすら億劫になっていた。いくら性別を変更しようと、弥隼は男なんて好きになれない。自分が将来家庭のある生活に憧れるのかは知らないけれど、今はそれについて考えたくなんかない。自分は死ぬまで独り身なのだろうか、というぼんやりした将来の不安が心を覆っている。
「えー、嫌なんだ?じゃあ、水商売とかは?割と儲かるんじゃない?」
「意味わからんっ!どーして俺が男に媚びなきゃいけないんだよっ!」
「ふーん、そっかぁ……確かに男の子だったから、あんまりやりたくないのかぁ……でも……」
「でもって、なんだよ?」
「うーん、僕がこんど手術で女の子になったら、体を売ってもいいかなって思ってる。そのほうが生きやすそうだし」
吉田は、へらへらと笑っていた。
そんな彼を見ていると弥隼の胸の底の黒いなにかが沸きあがってくる。そして次の瞬間、弥隼は吉田の胸倉を掴み、思い切り手繰り寄せていた。
「お前さ……手術するって話もだけどさ、そういうの冗談じゃなくて、マジで言ってるんだよな?」
「ど、どーしたの?マジだよ?怒ってるの?」
吉田は目を点にして、口をぱくぱくさせながら弥隼の目を見つめる。
そうやって慌てる彼を見て弥隼は少しだけ冷静さを取り戻して首を振ると、「……もっとちゃんと考えたほうがいいぞ、自分のこと」とだけ告げて彼に背中を向け、すっかり暗くなった町を駆けだしていった。
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