第19話 妖精少女と逃走劇
「初対面でうそつきだって言われたの、初めてです」
弥隼の隣で肩を並べて歩く少女は、少しだけ拗ねたような、そしてからかうような目で言った。
「悪かったな」
弥隼はほんのり罪悪感を抱えながら視線を落とす。
「でも、俺に近づいたのにもなにか理由があるんだろ?」
「えーっ?まだ疑ってるんです?」
少女はため息まじりに頬をふくらませてそう言うと、一瞬だけ薄笑いを浮かべてから、その呆れたような声色をイタズラっぽい声に変える。
「それとも、また聞きたくなっただけかな?”ひとめぼれです”って」
「いくらなんでもそれは嘘だってわかるんだぞ。リアリティが微塵もない」
少女は「もぅ」と声を尖らせながら、マスク越しでもわかるほどに頬をむすっとさせて、肩をすくめた。
「ちなみに、今ってどこにむかってるんです?」
「ろくでなしどもに申し込まれた喧嘩へ向かっている」
「ですよね」彼女は困ったようにそう言う。
「そんなよくわかんない連中のとこ、行く理由がわかんないです。喧嘩するの好きなんですか?」
「まあまあかな」
「じゃあ、行かないでください」
「行かなかったら行かなかったで、臆病者って噂が立つんだ」
「別に立ってもいいじゃないですか、ろくでなしが言いふらす噂なんて」
「俺は嫌なんだって。とにかく、ついてきたら危険な目に遭うだけだからもう帰れ」
「いや、ついていきますよ。大丈夫、見学するだけですから」
「……なんでそんなに俺のことが気になるんだ」
「だって、疲れませんか?そんな生活やってて。それなのにわざわざ行くなんて、変な人だなぁ、って思うんです」
彼女のあきれ顔を横目に、弥隼はただ歩いていた。
なぜ自分は、こんなに日常的に喧嘩をするようになってしまったのだろうか?すぐ暴力を振るう人間だという噂が立ち、まともな人間はみんな自分から距離を置くようになった。気づけば、今の自分は喧嘩を通して人間との関わりを接種するしかなくなってしまった。
まともな友達がいるなら、こんな喧嘩ばかりの生活はしていない。いや、逆にこんな生活をしているからまともな人間関係が構築できないのだが。
ただ、もし、理人と決別していなかったら。今頃自分は不良になっていなかっただろう。これだけは堂々と言える。
「あ、あれじゃないですか。例のろくでなしさんたち」
ふと、少女が遠くを指さしながら声をあげた。その先では学ランを羽織った体格の大きな中学生たちが三人、缶ジュースを片手にたむろしていた。
「分かってるなら隠れてろ」
弥隼は脇道に隠れ、小声で少女に指示を出す。しかし、彼女は耳を貸さずに堂々と歩いてゆく。
「うーん、どうしよっかな」
「ばかっ、そっち行くなっ」
少女はそのまま、不良たちのいる通路の近くまで堂々と歩いていく。不良たちは一瞬だけ彼女を気に留めたが、目当てである弥隼の姿が確認できないことを知ると、すぐに興味を失ったようにそっぽを向いた。
「おい、戻ってこいっ、俺と一緒にいるのがばれりゃお前にも飛び火するぞっ」
弥隼の度重なる小声での忠告を彼女は無視し続ける。そして、路肩に小石が落ちているのを発見すると、何かをひらめいたようにそれをひょいと拾い上げ、右手に握りしめる。
「おい、なにしてんだ……」
「ほいそれーっ!」
彼女は、拾い上げた小石をにぎりしめながら大きく振りかぶった。そして、路上に飛び出した弥隼の静止も間に合わず、小石は彼女の掌から放たれてしまう。伸びやかに放たれた小石は放物線を描きながら十数メートルほど空中を舞い、不良の頭上でごつんと音を立て、転がった。
「あら……あんなに良いところに当たると思いませんでした」
彼女は満面の笑みで振り返ると、弥隼の右腕にぎゅっとしがみついてきた。その後ろでは何が起きたのか理解しきれていない不良たちが声を荒げ、驚いていた。
「さてと……どーします?」
そう言って屈託なく笑う彼女は、弥隼の右手にしがみついたまま離れようとしない。
「ばかっ、逃げるしかないだろっ」
***
弥隼たちは十分ほど走り回って、近所の団地の公園に着いていた。弥隼は近くに追っ手が来ていないことを確認すると、ベンチへ腰掛け、一息つく。
全身から汗が吹き出し、ワイシャツもびしょ濡れになっていた。綺麗に結われていた彼女のふたつ結びはすっかり乱れて、ヘアゴムから飛び出した毛が縮れていた。
「映画のワンシーンみたいでしたねー。楽しかった」
少女はそう言って、動物のイラストが描かれた白いハンカチを渡す。
「……どーも」
弥隼は額の汗を拭き取り、ハンカチを畳んで返した。
「あら、怒らないんです?」
「あれはあれでなんだかんだ楽しかった。石を投げられたあいつらの間抜けな顔も見れたし」
それに、彼女の手を握って走る感覚が忘れられない。悪どい笑い声をあげる彼女にしがみつかれて、一心不乱に坂道を駆け、風を切るたびに舞った彼女のスカートが自分の右足に当たる、あの感覚が。
例の不良三人組をひとりで相手するくらい、なんてことはない。ただ、あの状況で奴らの攻撃対象は石を投げた少女になっていた。そして当の彼女は、自分の右手にしがみついたまま離れようとしなかった。だから彼女を守るために逃げなければならなかった。それだけの理由で彼女の手を掴んでいたはずなのに、今ではあの掌の温かさが忘れられない。酸素の切れた脳をうっすらと覆ったあの浮遊感が忘れられない。
二人はベンチに座ってしばらく沈黙したまま夕焼けを見上げていたが、ふと少女がスマホを確認して、口を開いた。
「……あ、そろそろ門限だし帰らないと」
「へ?もう帰るのか?」
彼女との時間に、もう少し浸っておきたかった。この非日常が織りなす美しい夕焼けを、いつまでも二人で見ていたかった。最初は彼女のことをあんなに疑っていたはずなのに、今では彼女との別れをひどく切なく感じる。
「帰っちゃ、いけないですか?」
「や、別にいーけど……」
弥隼は何かを言いかけて、その言葉を飲み込んだ。そして、彼女を見送ろうと立ち上がる。
「……なにか言いたげな顔です。言いたい事があったら直接言ってください」
「いや、えっと、その……連絡先……」
「連絡先が?どーしたんです?」
弥隼はおどおどしながらも、言葉を紡ぎ続ける。
「あの……おれたち学校もちがくて……もう会う機会、ないかもだけど……でも、またいつか話したいって思ったから……それで……おれスマホもってないから……」
弥隼は目を泳がせ、続ける。額の温度がどんどん熱くなり、正気を保てないほどの酔いが体を襲う。
「だから、その……電話番号おしえてほしくて……」
少女はそれを聞いて安堵したように微笑むと、付箋の上にペンを走らせ、弥隼に渡した。
「夜の八時がよく繋がりますよ」
彼女はそう言うとすぐに、軽やかな足取りで去っていく。
(……名前、聞けなかったな)
まるで妖精のような少女だった。遠くなっていく彼女の背中が見えなくなるのを確認すると、彼女からもらった付箋を大事にたたみ、ポケットにしまった。
次回更新予定:10/13(月)
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