第20話 妖精少女と最悪の初恋
少女との出会いから二日置いて、弥隼は受話器に手をかけていた。
弥隼は、彼女のことが忘れられなかった。二人で手を繋いで逃げた時の、あの景色が忘れられなかった。風を切って走る時の、あの異国にトリップするような疾走感が忘れられなかった。
彼女のことがそれだけ気になっていたのに今日まで電話をかけるに至らなかった理由は、弥隼がスマホをもっていないので、リビングにある固定電話を使わなければいけないからだ。そうなると、親がリビングにいる日は必然的にかけられない。仲が良好でない両親の前で、気にかけている女子との電話を聞かれたくないという、思春期特有の症状が発動してしまうからだ。
今日は、親の出勤日だから家では弟とふたりきり。だから弟が風呂に入ってるこのタイミングがチャンスなのだ。弥隼は震えながら受話器に手を掛け、少女から貰った電話番号のメモ通りに番号を押していく。
六コールほどすぎて、電話がつながった。
「はい、もしもし」
「もしもし、あの」
「あ、その声!弥隼くんじゃないですか。早速かけてくれたんですね」
彼女がすぐに自分だと気付いてくれたので、弥隼は心から安堵した。俺の声なんて忘れてしまわれてないだろうか、と内心不安になっていたのだ。とはいえ、弥隼はすぐに彼女の言葉の持つ違和感に気付く。
「あれ……? 俺の名前、おしえてたっけ……?」
「へぇ?……そ、そうですよ。この前、しっかりこの耳でおしえてもらいましたから」
「そうだっけ?」
「そうです」
「でも、俺はまだ君の名前を知らないな」
「あぁ。そういえば自己紹介がまだでした」
そう言って、彼女は深く息を溜める。受話器の向こう側からは、なにか水滴が垂れるような音が聞こえた。
「わたし、リサっていーます」
「リサ」
弥隼は、その響きを味わうかのように復唱した。その発音を噛みしめるほどに、心が温まっていく気がした。
「弥隼くん」
「……どーした?」
「いや、お互いの名前を呼び合うのって初めてだなあって」
するとリサの「むふ」という湯気のような笑みが聞こえた。雛鳥の寝言のような彼女の声は、なんだかトンネルにいるかのように反響して聞こえる。
「あの、リサ。ところでなんかそっちの音質が悪いみたいなんだが」
「あ、そのはずです。だっていま、お風呂タイムだし」
「……へ。おふろ?」思わず聞き返した。
「うん。いま、髪にシャンプーついたまま話してます」
ほんとかよ、と心の中で叫ぶ。どうりで音質が悪いはずだ。そもそも風呂の中でケータイって使えるのだろうか。よく知らないけど、防水機能?に優れているのだろうか。
いやいや、それにしてももっと別の問題のほうが大事だ。さっきまで俺は受話器の向こう側にいる彼女の姿を想像して話していた。ふわふわの部屋着を着てリラックスしている彼女の部屋の情景を思い浮かべて、それだけでどきどきしてしまっていた。なのに、受話器の向こう側の世界が浴室だなんて。……いや、想像しちゃダメだ。
「じゃ、じゃあ迷惑だよな。じゃあまたふろあがる頃にかけなおすから……」
「え?このままでいーですよ?」
リサはどこか間延びした声で言う。
「ところで、今日はどうして電話くれたんです?」
「あ、あの……また会いたいな、って思って」
声に出してみて、改めてらしくないな、と感じる。
一回会っただけなのにしつこく纏わりついてきて、きもいと思われてないだろうか。冷めてしまわれないだろうか。そんな不安を抱えながらそのセリフを吐いた。ただ、そんな弥隼の不安の雲をかき消すようにリサは、ふんわりと返事をした。
「ふふ、いーですよー」
「そっか、うれしい……」
数分の会話の末に受話器を置いて、胸をなでおろした。どうやらうまくいったようだ。
「兄ちゃん、誰と話してたの?」
髪の濡れた朔矢が、タオルを首に巻きながら弥隼の顔をきょとんと見上げていた。
「ふぇっ!?聞いてた……?え、えと。学校の友達だよ。もうすぐ春休みだから、遊ぶ約束したくて」
「ふーん、そっかぁ」
朔矢は納得したようなしていないような声を垂らし、ドライヤータイムへと入った。本当は学校の友達なんていないんだけどな。弥隼は心の中でつぶやく。
この時の弥隼は、もうすでにリサにメロメロになっていた。一度手を握っただけで彼女の掌の温かさをまた感じたくなってしまった。通話中は常に昂りを抑えていたし、受話器を置いた後も鏡を見て目がハートに変形していないか確認しているほどだ。
儚い初恋を想いながら、布団の中でうずうずしていた。リサと一緒にいれば、こんなダメ人間の自分でも変われる気がした。孤独な自分に興味を持ってくれる彼女の存在がたまらないほどに愛おしくてしょうがなかった。
彼女との待ち合わせは、春休みの初日だった。最寄り駅の東口に立っている彼女をみつけると、弥隼は駆け足でそのシルエットを追う。
淡いピンク色のプリーツスカートが、彼女の膝元でほのかに春の風をまとっていた。クリーム色のセーターはゆったりとその華奢な両腕をつつんでいて、口もとには水色のふりふりしたマスクがついていた。
「お、おまたせ」
「あら、おはよう!」
彼女はそう言ってにこやかに目を細め、弥隼の肩をぽんと叩く。
「なんか弥隼くん、一週間の間に瑞々しくなったきがします」
「みずみずしい?……そうかな?俺の雰囲気をうろ覚えで記憶していただけじゃないのかなぁ」
「ちがいますよ。このまえのきみはもっと、野良犬みたいでした」
「のらいぬ」
思わず復唱してしまった。彼女の瞳には俺の姿はどう映ってるんだ、と謎に包まれる。
「でも、私服がテキトーなのは残念かな。マラソンランナーみたいです」
「そ、それはごめん……こういうのしか持ってなくて……」
ぴっちりとした青いジャージのファスナーを気にしながら、弥隼はこめかみを掻き、歩き出す。
行先は、電車で7駅先にあるショッピングモールだった。そこで適当に散歩して、近くの公園にある花畑を見に行くのが今日の目的だった。異性はおろか他の中学生とすら遊んだ経験のない弥隼がインターネットを使わずに精一杯ひねりだしたデートプランだった。
電車の席に座って、静かに座りながら隣を気にする。自分の行動や言動のひとつひとつが彼女を失望させてしまわないか、吊り橋を渡るような感覚で次のアクションを起こさなければいけない。そうやっておびえてどう会話すればわからなくなっていた頃、リサが口を開いた。
「見て、弥隼くん。もう桜が咲いてます」
そう言って彼女が指さす車窓の向こうには、住宅街の桜並木。まだ満開ではないけれどちらちらと蕾が開いていて、柔らかな空気を作り出していた。
「……きれい」
弥隼がそう言った瞬間に桜は大きなビルの影に覆いかぶさる。過ぎ去ってしまった遠景にちいさく手を振りながら息を呑んでいると、今度は車窓が群青の海を映し出した。何隻かの船がぷかぷかと浮かんでいて、航海灯をちらちらさせている。車内からでも潮の匂いを思い出してしまうような情景だった。
「近所だから見慣れてますけど、海が見える路線に住んでるって、しあわせですよね」
「……うん」
そうしてしばらく、ぼんやりと遠くの景色を見つめていた。それだけで緊張がほどけていき、コミュニケーションに対して抱いていた不安が消えていくような気がした。
次回更新予定日:10/16(水)
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