第23話 さらってください

スニーカーの靴紐をがちがちに結び直して、ひたすらに走る。日暮れの建物は赤くなっていた。ぼやけた視界の端にある住宅街は、蛸の足のように映っていた。


電話越しのリサの声が、鼓膜に焼き付いている。


『さらってください』確かにリサはそう言った。嗚咽が混じった、正常ではない様子の声で。まるで無人島からの通信を聞いているような、必死さと疲労感の混じった声だった。


『どういうことだよ……なにがあったんだ、リサ?』


受話器を受け取った時の弥隼は突然の彼女の訴えに動揺していた。


『詳しい説明はできません。とにかく、さらってほしいんです。いまから、駅前で待ってますから』


彼女がそう告げると、すぐに電話が切れた。それ以降はいくらかけ直してもつながらなかった。だから弥隼は今、こうして走っている。


さっきのリサは、いつもとは明らかに違っていた。消えゆくような、あんな悲壮感のある彼女の声を聞いたことはなかった。いつもの彼女は、あんなふうに弱音を吐かなかった。そんな彼女の明確なSOSサインだからこそ、より強く焦燥感を刺激している。


弥隼は走りながら、小学生のとき理人と決別した日のことを思いだす。あの日以来弥隼は親友を失い、乾いた孤独を知ることになった。今日はなんだか、あの日と同じような胸騒ぎを感じる。まるで、リサが失踪してしまうんじゃないか、という恐怖。根拠はなかった。だけれど電話越しの彼女のあんな声を聞いて、落ち着いてはいられないのだ。


弥隼は、駅前の広場に着いていた。そこで血眼になって辺りを見回していると、リサのシルエットが見えて、安堵した。彼女はベンチに腰をかけて頬杖をつき、地面を見つめていた。紅く腫れた目の下には、涙の乾いた跡が走っていた。


「弥隼くん、わざわざ来てくれてありがとうございます」


彼女は顔を下にむけたまま、抑揚をつけずに言った。


「それより、大丈夫なのか?なんかあったんじゃないかって心配で……」


弥隼がそう言ってリサの隣に座ると、彼女は顔をあげて目をこする。


「うん。電話かけたときはちょっと、気が動転しすぎてました。でも弥隼君がきてくれて、この通り、けろりです」


「そうには見えないんだが……なにがあったんだ?」


弥隼が聞くと、リサは首を横に振った。


「ごめん、言えないです」


「そっか……」


「それはともかく、弥隼くん。さっそくさらってください」


さらってほしい、という彼女の言葉。それは一体どういう意味なのか。


単に家族のもとに帰りたくないというだけなのか。予定調和な日々を繰り返すのに飽きてしまったのか。それとも周りの人間関係ぜんぶがイヤになって、すべて忘れ去りたいのか。それとも弥隼の知り得ぬなにかがあったのか。


それはわからない。だがリサの目にできた涙の跡は、なにかのショックが彼女の心を襲ったことを物語っていた。


***

リサと手を繋いで歩くのは、初めて会った時に不良から逃げた時以来だった。


弥隼は強引に引っ張られるがまま彼女に連れていかれる。これじゃあどっちがさらわれているのかわからない。リサはずっと俯いていた。道路の模様だけをじっと見るようにして、歩いていた。弥隼がどこに行ってるんだと聞いても、わかりませんとだけ言って弥隼をひっぱりつづけた。


そうやって足が棒になるまで歩き続けて着いたのは、隣町の自然公園だった。木々が鬱蒼と茂り、日も暮れているから人通りはほとんどない。


「もう暗くなるから、こっちは危ないぞ」


「危ないほうがいいです」


弥隼の忠告も聞かずに、彼女は歩いていく。しかし、足元に伸びた木の根に気付かず、リサはバランスを崩して転んでしまった。しかも運の悪いことに転んだ先には粗い石があったので、彼女は膝元を浅く切ってしまう。スカートの下から鮮血が滲んでいるのが見えた。


「いたた……」


「大丈夫か!?」


弥隼は慌て、彼女のもとへ駆け寄った。





弥隼は公園の広場に移動し、蛇口で彼女のスカートを軽く押さえ、傷口を洗っていく。日は完全に沈んでいた。


「なぁ、もう帰ろう?家族に会いたくないなら、今日はうちに泊まっていいから。嫌なことあったのかもしれないけど、あったかい部屋で寝てりゃ気分も良くなるよ」


「……いやです。それじゃさらってるんじゃなくて、保護です。弥隼君が帰っちゃうなら、私はさらってくれる人を他に探しに行きます」


「もう、いじっぱりだなあ」


弥隼は呆れた声で「むこう向いてて」と言うと、ジャージのファスナーを外し、肌着を脱いだ。そしてその肌着を引っ張って、びりびりに破いていく。


「な、なにやってるんです……?」


「応急処置だよ」


そう言って軽く肌着を洗うと、彼女の膝に巻き付けた。


「包帯ってほどいいものじゃないけど、ないよりはマシだろ」


「そんな、ただの切り傷ですって」


彼女は遠慮気味に言った。それを見ながら弥隼は即席の包帯を整え続ける。


「……リサの身に何があったのかは知らない。でも、俺はいまめちゃくちゃ心配してるんだ。急に人が変わったみたいになっちゃって……はやくいつものリサにもどってほしい。だから、帰ろう?」


弥隼が言うと、リサの瞳から涙がぼろぼろとこぼれた。


「帰りません!」


「でも、泣くくらい辛いんじゃ見ておけないよ」


「泣いてない!」


リサは意固地を貫き通した。


彼女の涙がなんだったのかも、この時何を考えていたのかも、今となっては見当もつかないし、知りたくもない。ただ、この時の彼女の涙は決して演技などではなかった。根拠はないけれど、近くで見ていたからわかる。我慢した末に溢れ、こぼれおちてしまった涙だった。


リサは落ちた涙をブラウスで拭き取ると、さっきまでの涙が嘘だったかのように突然冷めた目になった。まるで、心を殺しているようだった。


「弥隼くん、トイレに行きましょう」


「……すぐそこにあるよ、行ってきな」


「いえ、弥隼くんもいっしょに」


「……何言ってるんだ?」


信じられない彼女の発言に困惑し、弥隼は眉をひそめた。


「多目的トイレだから大丈夫です。近くで見張ってないと、わたし死んじゃうかもしれませんよ?」


「縁起でもないこと言うなって……」


結局、弥隼は手を引っ張られ、リサと一緒に多目的トイレに入ることになってしまった。陶磁器色の壁に囲まれた、公衆トイレ。ところどころで黒ずんでいて、小刻みに点滅した照明の周りには蛾が舞っている。


「俺は向こう見てるから、さっさとすませて一緒に帰ろう」


弥隼がそう言うと彼女は突然顔をあげ、目玉を思い切り見開いてこっちを見た。そしてトイレの鍵を閉め、扉の前に立ちふさがった。


「弥隼くん、謝ることがあります」


「どうしたんだ、今度は」


「わたし、キミを騙してました」


彼女の声は、震えていた。


「最初から、弥隼くんを警察に捕まらせるために騙してたんです。すでに、外にいる私の仲間が警察を呼びました。この状況で警察が来たら、弥隼くんが私を襲った、と考えるのが自然でしょう」


「……リサ、どうしたんだ?やっぱり休んだほうがいいんじゃ……」


差し伸べた弥隼の手をリサは軽く叩き落とし、ある人物の名前を言った。

「佐々木華輝」


「……なんでそいつの名前を知ってる」


「彼が、私を裏で動かしていた人間の名前だからです」


華輝。彼はかつて弥隼から親友の理人を奪い去った人物だ。


「彼は弥隼くんに恨みを持っていた。そして、私は彼に依頼されて弥隼くんをだますことにしました。孤独なキミの偽りのガールフレンドになって、大事な存在になる。そして手放せない存在になったところで、裏切る。キミは警察に捕まって、性加害犯罪者として性転換刑になるでしょうね」


「……何言ってるのか、全然わからないんだが」


弥隼はこの状況になってもなお、彼女に寄り添おうとしていた。彼女が精神を病んでしまって、寝言を言っているだけなのだと、そう思いこんでいた。しかし彼女の目は本当に弥隼を哀れんでいるかのようなもので、弥隼はまさかと思いながらも彼女の隣に寄りかかる。



「まだわからないんですか?全部、うそなんですよ。きみに一目惚れしたっていうのも、遊ぼうって言ったのも、さらわれたいっていうのも、ぜーんぶ都合のいい嘘だったんです。襲われたっていう証拠をでっちあげるために、このとおり痣まで作ってきました」


そう言ってブラウスをめくりあげた彼女の胸元は、真紫に染まっていた。


「キミを貶めたくてしょうがなかったんです。弥隼くんのことも全然好きじゃないですから」


「リサ、変なこと言ってないで、一緒に帰ろう?そしたらまた……」


「何言ってんですか?もう二度と会いませんよ」


その瞬間、サイレンの音が聞こえた。トイレの鍵を開けて外を見ると、制服を着た警察官がぞろぞろと走ってきた。リサは「助けて!」と叫んで警察に抱きつき、嗚咽混じりの声で訴える。


「この人が……この人が私を襲おうとしたんです!」

警察官たちはリサの言葉を真に受け、弥隼をすぐさま拘束した。彼女の胸元の大きな痣を見て、弥隼の味方をするものはいなかった。冷たい手錠で、両手ががっちりと締められる。現実が受け止められなくて、反論もできなかった。未だに彼女に手を差し伸べようとしていたほど、弥隼は重症だった。


「これでさよならですね、弥隼くん」


その言葉で、弥隼は現実をやっと受け入れた。そうか、もうリサに会うことは二度とないんだ、と。


彼女はずっと、地面を見ていた。最後に目を合わせてはくれなかった。警察に連行されながら、リサの姿がどんどん離れていく。


なぜ、大切な人ばかり奪われていくのだろう?


不思議と涙は出なかった。喧嘩ばかりして、自分を強くみせようとしすぎて、もう涙の出し方すら忘れてしまったのかもしれない。


パトカーの回転灯に照らされたリサの瞳は、真っ赤に染まって見えた。


次回更新予定:10/23(水)

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