第27話 謎の感情
今日の体育は持久走。カラっと晴れた青空のもと、ほんのり肌寒い風が吹く校庭でクラスメイトは集まっていた。
コースは一度校門の外にでてから近所の遊歩道をぐるりと周り、またスタート地点へと戻ってくるというもの。
みっちりとしたジャージを纏いながら、弥隼たちは校庭でストレッチをしていた。冷え込んだ季節だけれど吉田はいまだに半袖半ズボンで、まっすぐに伸ばした細い右脚からは産毛がうっすらと生え広がっている。
弥隼は、そんな吉田をどこか審美的な目で見ていた。
……水上さんは本当に、こんなやつが好きなのか?
おばかで、イケてなくて、なんか抜けてるのに。
弥隼は、そう思いながら吉田のことをじっと観察した。
ほんのり赤みのあるほっぺたはもちっと肉づいていている。確かに触り心地は良さそうだけど、これがチャームポイントってやつなのだろうか?
彼のまんまるの目は水面に反射した満月のようにくりくりとして、瞳の模様がくっきりと確認できるほどの潤いだ。彼はそんな目をぱちりと開きながら、顔を近づけてきて、
「……なぁに? ぼくの顔になんかついてるの?」
「わ、わわわっ!?」
吉田は、きょとん顔を思い切り近づかせて言った。もう少しで鼻と鼻が当たってしまいそうな距離だ。
「な、なんとなくみてただけだって……」
「ふーん、そっか」
吉田は腕を組んで頷きながら、「要するに、僕に見惚れてたんだね」とからかってきた。
弥隼は「ばかやろ」と肩をぶつけた。
「てゆーか柚月、いっしょに走らない?どーせ手術のせいで走るのもおそくなったんでしょ?今の柚月になら僕でもついていけそう!」
「おいおい、俺が弱っちいってか?悪いけど、体育で馴れ合いはしないから」
「もー、そんなに強がって!体を動かし慣れてないのに無理するなって言ってんだよぅ」
「うるさいっ、俺はお前なんて置いて一人で走ってやるからなっ」
「ほんと、ばかなんだからー」
弥隼は、拗ねた調子でスタートラインへと向かう。自分よりも運動神経の悪い吉田にあれこれ指図されるのがなんとなく気に障ったのだ。
***
「よーい……スタート!!」
体育教師が力強く合図を出すと、密集していた生徒たちが一斉に走り出す。その中には弥隼もいて、集団のペースに負けじと、食い下がりながら走りだす。
──なに、手術したといっても肺活量は対して変わってないはずだ。だとすれば、ペース配分は今まで通りでいい。そう思って、呼吸を整え先頭集団に着いていくように両手を振り続ける。
なんだ、案外俺も走れるじゃないか。このまま上位を維持して、俺の体力がまだ健在だっていうことを証明してやる!
弥隼は気合を込めて呼吸を整え、次の一歩を力強く踏み出す。
……その二分後。
「ぜえっ……はあっ……はぅっ……」
肺が焼けるように苦しく、筋肉は悲鳴を上げている。一刻も早く立ち止まって休憩したい気分だった。周囲の生徒たちは次々と弥隼を抜き去り、既に弥隼は後方を走っていた。
「もー、言わんこっちゃない。自分の衰えを受け入れないからペース配分ミスるんだよ」
弥隼の横で、吉田が呆れ顔で付き添うように走っていた。
「うるせっ……構わず、さっさといけよ……おまえ、俺に合わせてペース落としてるんだろ」
「あのね、僕にとっちゃ体育の授業なんてたいしたもんじゃないんだからさぁ、記録とかどうでもいいんだよ」
「……気遣ってるんだったら、やめろよ」
弥隼は息を切らしながら、吐き捨てた。
「へ?どゆこと?」
「お前、おれをみじめに思って、ついてきてるだけだろ」
弥隼が突き放すと、吉田はいつものキョトン顔を近づけてくる。
「えぇー?ただ、一緒にいたいだけなんだけど?友達ってそういうもんじゃん」
彼はキッパリとした笑顔で言った。
「……ともだち」
弥隼の胸が、きゅっとなった。
そうか。水上さんは、吉田のこういうとこがすきなんだ。こういう素直なところが。
そして俺も、吉田の、こんな屈託のない所になんだかんだ助けられてる。吉田が相手だからこそ疑心暗鬼に陥らずに接することができて、人間関係が怖くない。
ちょっと悔しいけど認めよう。吉田は魅力的な友達だ。
でも、もし水上さんが吉田に告白したらどうなっちゃうのだろう?そうしたら、きっとふたりは付き合うことになって……そしたら水上さんが彼女で、吉田は彼氏。
そしたら、俺、おじゃま虫になってしまう。だって、今の俺は女なんだもん。だから、あいつの男友達にはなれない。
となると、三人の輪から、俺は自然に外れていくんじゃないだろうか?
なんだかんだ居心地のよかったこの関係も、希薄になってしまうのだろうか?
いやいや。俺は何を考えてるんだ。こんな歪んだ考え方ばっかして。水上さんの恋路を応援してやるのが友達ってもんじゃないか。
それに、ひとりぼっちでいるのは慣れてるし……今更、こんなこと気にしてどうすんだよ。
心の中のモヤモヤと戦いながら、弥隼は吉田と目を合わせないようにして走る。
「どーしたの?めっちゃ変な顔してるけど」
弥隼の歪んだ顔に気付いた吉田は、たったと走りながら声をかける。
「い、いや……なんでもないよ」
「柚月、もしかしてつらいの?一回休もっか?」
「もう、大丈夫だってば!」
弥隼は複雑な感情に惑わされ、足に余計な力をこめてしまう。
その瞬間、足元がふらついた。弥隼はバランスを崩し、急に速度を落とせずに反射的に体をよろめかせて次の足を斜め前に出す。しかし、運悪くその先にあった側溝につま先をひっかけてしまう。そして足は側溝の中に沈みこみ、弥隼は思い切り転んでしまった。
「…………あうっ」
痛みに顔をしかめながら地面に倒れこむと、冷たいコンクリートの質感が手のひらに伝わる。
「だ、だ、だいじょーぶっ!?」
吉田が血相を変えて見つめてくる。それもそのはずだ。深い段差に段差でつまずいたおかげで、頬が床についてしまうほど派手にころんでしまった。幸い体重を手で押さえられたから顔に傷はつかなかったけれど、それでも手のひらからは血が滲み出ている。
さらに感じたのは、鈍痛の走る足の違和感。試しに足を動かそうとすると、焼けつくような痛みが広がる。どうやら捻ってしまったようだ。
ここは校門の外側のランニングコース。弥隼がいるのは最後尾で、きっと先生は近くにいないだろう。つまり、現地点から校舎までの数百メートルを戻るのに、大人に助けを求めることはできない。
「ま、このくらいへーきだって……」
と、口では言って見せるが、弥隼の顔色は明らかに正常ではない。吉田はその様子を見て小さくため息をつくと、倒れこんだ弥隼に駆け寄った。
「もう、強がってる場合じゃないよ」
「いや、だから、大丈夫だ────」
そう言いかけた弥隼の背中に、吉田の手がそっと回される。彼の腕の中で自分の体がふわりと浮かんで、気づけば弥隼は吉田に抱きかかえられていた。
「なっ……なっ……!?」
「……痛くないよね?」
思っていたよりも力強い、彼の腕の中。弥隼は緊張で体を強張らせながら吉田の顔を見た。
(……痛いとか痛くないとか、そういう問題じゃない)
自分は今、”お姫様だっこ”をされている。
「なんでだっこなんだよ……」弥隼は顔を赤くして彼と目を合わせるが、吉田は「動かないでね」と告げて走り出す。
「おっ、おい!」
半袖から露出した彼の柔肌の中に収まって、彼の首の後ろに手を伸ばしてしまう。そうしたのはただバランスをとるためだけではなく、少しだけ体温の低い彼の肌に温もりを感じていたからでもあり、この体勢にわずかな安心を感じていたからでもある。
「だって、そんな怪我じゃひとりで帰るなんて無理でしょ?」
言葉が出なかった。
もし他の生徒に同じことをされていたら暴れてでも抜け出し、左足を引きずりながらでも一人で帰ることにしただろう。いままで弥隼が築き上げてきた弱みを見せたくないという防衛本能がそうさせるのだ。
でも今はなぜか、弱みを見せてもいいように思えてくる。
なんでだろう。
……いつもぼけっとしてるくせに、こうやって人が困ってるときには優しくしやがって。
その優しさを素直に受け止められない自分に腹が立つ。
俺、結構イヤなやつだな……
こんな調子でいたらすぐに水上さんと吉田がくっついて俺は仲間外れになっちゃうだろう。薄々思ってはいたけど、俺には二人と違って魅力のかけらもない。優しくもないし、頼りがいもないし、可愛げもない。男としての魅力も、女としての魅力もない、空っぽの人間だなあ。
***
保健室で診てもらったところ、大した怪我ではないようで安心した。その後は吉田の肩を借りながらベッドの上まで移動し、保健の先生も安心して外出していった。
ふたりきりになった保健室で横になりながら、弥隼は自分の心臓がどくどくと高鳴るのを感じる。
「じゃあ、僕もう教室に戻るね」
吉田がそう言ってベッドを離れようとした瞬間、弥隼は無意識に「ちょ、ちょっと待って!」と叫んでいた。
なぜ呼び止めたのか、自分でもわからない。とにかく、弥隼は吉田の手をぎゅっと掴んでいた。とにかく、彼を引き留めたくなってしまったのだ。
「なーに?どーかしたの?」
吉田は柔らかなトーンで問いかけ、ベッドのカーテンの隙間から顔をひょこっと出す。彼の大きな瞳が、くりくりと輝いていた。
「え、……えと、その……」
吉田は挙動不審にもごもごと口を動かす弥隼をみて、首を傾げながら「へんなの」と言って枕元に顔をぽすんと乗せる。
(何か、いわなきゃ……でも、何を伝えたいんだ……?)
そんな得体の知れない緊張に流され、つい口から零れてしまった言葉。それは、自分でも理解不能なものだった。
「吉田……あの……もうちょっとだけ、一緒に居て……」
(俺は……何を言ってるんだっ!?)
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