第2話 はじめての女子学校生活

──どうして俺は、こんなことになっちまったんだろう。


そう考えながら、リサのことを思いだす。


リサと俺は、恋人の一歩手前だった。


リサはいつも穏やかで、俺みたいな一匹狼を優しく受け入れてくれて、俺の意固地な一面とかも否定せずに、受け入れてくれた。


当時の俺はリサのことが本気で好きだった。彼女の放つ暖かい光が、血の気の多い俺の孤独を埋めてくれるかのようだった。


俺にとってリサは、完璧な女の子だった。


リサが俺に向けた愛がすべて、偽物だったということに目を瞑れば。


ある春の日のこと。リサは突然豹変し、腕を引いて、俺を多目的トイレの中へ無理矢理連れ込んだ。


この時点で何かおかしい、と感じて引き返すのが正解だったってのはわかってる。実際、ちょっとは怪しいかもって懸念が頭によぎった。


でもこの状況を1000回繰り返したとして、俺は1000回同じ過ちを繰り返すと思う。そのくらい、当時の俺は彼女に酔っていたんだ。今だからわかるけど、寂しかったんだと思う。その証拠に彼女を失った今の俺は、すごく寂しい気がする。


結局、馬鹿な俺は誘惑に乗せられ、リサと一緒に多目的トイレに入ってしまった。


しかし、前述の通り俺は最初から騙されていたのだ。あの温かい眼差しも、俺を認めてくれた言葉も、すべて仕組まれた罠だった。


早い話が、美人局つつもたせだった。


トイレに入った段階で、すでにリサの仲間が警察に通報を済ませていたのだ。警察が来た時、俺は最初何が起こっているのかわからず、ただ狼狽えていた。いや、本当は状況を理解するだけのピースは揃っていたんだけど、それを受け入れたくなくて脳が自分の機能を制限したんだ。そういう感覚だった。


まだ信じたい、という気持ちが思考の邪魔をしてしまったんだ。


その結果、俺はリサの近くから離れられなかった。きっと彼女はおかしくなってしまったんだ、俺が見守って、助けてやらないと、なんて思ってたんだ。


ただ、彼女とはがされて警察に連れていかれたころには『俺がリサを犯すためにトイレに連れ込んだ』ということになっていた。その頃になってようやく現実を受け入れ始めた。



この美人局の目的は、金銭を要求することではなく、俺への復讐だということが後になってわかった。どうやらリサという女は隣町の不良である、佐々木の指示を受けていたらしい。俺は過去、いろいろあって佐々木に恨みを買っていたのだ。


そしてそれがすべてのきっかけだった。最初リサが近づいてきた時から、全ての歯車は俺を貶めるために動いていたのだ。そしてこの事件がきっかけで俺は、性転換手術を受けることになる。


というのも、こういう性被害の事件が起こると、社会は再犯防止のため『性転換刑』を執行するのだ。


性転換刑。

それは文字通り、性別変更手術を強制的に受けさせる刑罰。


こういう動きは今じゃ珍しくない。俺は中学二年生だから少年事件として扱われたけど、それでも充分に危険性があるとみなされ、性別変更手術を受けさせられることになってしまった。


でも、俺は悪くない。いや、多目的トイレを使ったのはちょっと悪いと思ってるけど、でも最初に俺を誘惑したのはリサのほうだ。

でも、それをいくら主張しても、大人は全く信じてくれなかった。無理もない。俺は挑発に弱くてすぐ右手が出ちゃうから、元々問題児として見られていたんだ。


だから両親にも愛想を尽かされ、中学の担任にも呆れられてしまった。

結局、判決が覆ることはなく、俺は手術の同意書にサインをすることになってしまったんだ。


***


気付いたら弥隼は、スカートを履いたまま学校についていた。通学路での記憶がまるでないけど、確かに今、教室の前に立って、重たい扉に手をかけていた。


そして扉が完全に開き、教室と外界をふさぐ壁がなくなると、恐怖、嫌悪感、焦りといった負の感情が一気に去来した。学生らしい活気に満ちた教室の中で、自分だけが別の座標にいるのだ。俺が開けたドアの音を聞いて、クラスメイトたちが好奇の目線を俺に向ける。


女になってから、はじめての学校。


こわい。やっぱり学校なんて、来なければよかったかも。


弥隼は手の震えを押さえながら椅子を引き、スカートを押さえながら自分の席に座った。



『あれってもしかして……』

『やっぱそういうことだよね……マジか……』


女子になった自分を囲むクラスのざわめいた空気が、耳を突き刺すようだった。変わり果てた自分の姿を見て、どのように思われているのか想像するだけで、吐き気がしてくる。そして自分がそんなふうに萎縮していること自体までもが男らしくなくて、情けなくなってしまう。


『元々あいつやばかったもんね?友達もいないみたいだし……』

『シッ!聞こえてるよ……』


耐えろ。ここで屈したら未来はないんだ……



「お前、もしかして柚月かよっ?」

弥隼が座席にちんまりと座っていると、クラスメイトの木村が話しかけてきた。


「……そうだが、どうかしたかよ……」

「どうした、じゃねーよ!ははっ!お前、まさか本当に手術させられたのかよ!」


「…………」

弥隼はいじけた顔で、何も乗っていない机の上を見つめる。板上で並行に走る木目には、小さな亀裂が走っていた。


「何黙ってんだよ~っお前、北中きたちゅうのオンナ襲って手術刑になったんだろ?噂が流れてたぞ」

「そ、それは違う!俺は騙されたんだ!全部冤罪なんだ!」


弥隼がそう言うと木村は鼻で笑ったような顔をし、「何言ってるか知らんが、裁判で決まったんだからごねても仕方ないだろ」と、弥隼の手のひらを握ってきた。


彼の油っこい手が、弥隼の手を包み、柔らかさを確認するかのように揉んでくる。それはまるでおもちゃの人形を扱うかのような、気味の悪い手つきだった。


「な、なにするんだ……っ」

「なにって、触ってるだけだが?それにしてもあの意地っ張りな柚月くんが、こんなに華奢になっちゃうなんてねぇ」


自分が弱い生き物だとみなされていることに対する嫌悪感や、気味の悪い木村の仕草に対する恐怖が脳の中に浸透していく。


「気持ち悪いから、マジでやめろ……」

木村の手を振り払おうと左右に振ろうとするが、まるで粘土のかたまりに手をつっこんでいるかのように鈍重で、うまく振りほどけない。


「お前、もしかしてそれ、抵抗してんのか?そういえば、手術で筋肉の力も弱められてるんだっけか?かーわい」


せめてもの抵抗を見せようともう片方の手で木村を殴ろうとするが、あっさり受け止められてしまう。木村の手首にふにゅんと沈み込む俺の手の柔らかさが、自分の非力さをより一層実感させる。


「あはは。マッサージされてるみたいだ」

「く、くそっ……」

「ま、弱くても仕方ないよ。だって女の子だもんな」


そして木村はあざ笑うかのように弥隼の手を放し、「ま、せいぜいがんばれよ、柚月」と言い残して、冷えた視線を送りながら去っていった。


性転換刑では、再犯のリスクを防ぐために筋力を低下させる注射が投与されることになっているのだ。だから今の弥隼は、平均的な女性以下の力しか出すことができない。


脂肪に満ちた非力な手のひらを、ぎゅっと握った。


もともと、喧嘩の強さだけが取り柄だったような人間なのに。手術のせいでなにもかもなくなってしまった。肉体だけじゃなくて、誇りも、社会的な立場も、すべて奪われてしまった。


ふっくらとふくらんでいる胸の中は、からっぽで満たされていた。


木村との仲は、以前から険悪なものだった。いや、そもそもこのクラスには友達と呼べる人間がいなかった。弥隼は意固地で喧嘩っ早い性格で、自分を曲げることも苦手なのでクラスメイトからははぐれ者として扱われていた。


クラスメイトは、二種類に分けることができた。一種類は、クラスになじめない弥隼をいじろうとちょっかいをかけてくる、木村のような生徒。これがだいたいクラスの二割を占めている。


そして残った八割は、喧嘩っ早い弥隼のことを怖がって、近づこうとしない人間。


さっきも隣の席の女子が落としたペンを拾ってあげたが、彼女は弥隼の差し出したペンをひったくるようにとって、礼も言わずに震えていた。たとえ力が弱くなって殴り合いの喧嘩ができなくなっても、怖がられているのは変わらないようだ。むしろ女性としての社会的立場を得ようとしているみたいで余計に恐れられているかもしれない。


べつに、弥隼は自分のことを怖がるやつが悪いと思っているわけではない。ただ、居場所のないこの世界の中でうっすら孤独を感じているのも確かだった。


そんなわけで、このクラスには弥隼とまともに会話しようとする人間はいなかった。


……ただ一人だけ、「例外」を除いて。


弥隼はその「例外」のことをこの時は対して気に留めていなくて、それどころか心の奥底で煙たがってもいた。でも確かにこのクラスで、会話をするために弥隼に話しかけてくれるのはそいつだけだった。


「こらっ!柚月の席に座っちゃダメだぞ!」


弥隼の後ろ姿を見て素っ頓狂な声をあげる少年の髪が、風で揺れていた。

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