第12話 意外と、臆病

早朝の教室は弥隼と吉田、そして水上の三人きりだった。水上は弥隼の隣にある自席に腰を掛け、鞄の中を整理していく。物理的な距離は近いけれど、弥隼は水上との間に見えない壁の存在を感じていた。しかし、そんな空気を読むこともなく吉田はいつものように弥隼に話す。


「そうだ、見てよ柚月! 今日は水筒にコーヒー牛乳入れてきたんだよ」


吉田がそう言って自信満々に見せびらかすのは、蓋の外れた大きな青い水筒。中には黄土色の液体がたぷんといっぱいに入っていて、コーヒー豆の香りがほのかに漂っている。


「そんなもんたくさん飲んでたら、病気になるぞ?」


「えーっ、厳しいこと言うなぁ。ジュース代が浮く世紀の大発明だと思ったのに」


吉田はそう言って苦い顔をしながら水筒に口を付ける。


「ねぇ、水上さんはどう思う? 僕のコーヒー牛乳」


吉田の言葉に対して、水上は苦笑いを浮かべながら返す。


「うーん、ジュースで水分補給は体に悪いかなぁ……水とかお茶のほうが体にいいよ」


それを聞いた吉田は眉をハの字にして「そっか……」としょぼくれ、息をついた。


「じゃ、水道飲んでくるね……」


行動早いなぁ、と弥隼が心の中で呟いている間に吉田は教室を出ていってしまう。そして扉が閉まる音と同時に、教室内は弥隼と水上のふたりきりになってしまった。


(うわ気まずっ、何か話さないと……)


弥隼はこめかみの毛をしきりに触りながら、脳内で精一杯言葉を紡ごうとする。


「……あの。吉田がグイグイ行って、迷惑じゃないか?」


水上は薄い手帳を開きながら、横目で弥隼のことを見る。

「……大丈夫だよ。賑やかなのは嫌いじゃない。吉田君のことも嫌じゃない」


「だったら、よかった」


「……うん」


その言葉を発端に、教室内には沈黙が流れてしまう。弥隼は苦い顔をしながら机に両肘をつき、手のひらで口を包んだ。


「……その、話しかけてごめん。俺のこと、怖いよな」


三秒ほど沈黙を挟んだ後、水上は口を開く。


「ふーん、バレてた? たしかに私は柚月くんのこと、怖がってる。君が停学になる前から、ずっと。」


「……そっか」

下腹部の奥がじんわりと痛くなる。それと同時に、こめかみから右頬にかけて冷や汗が伝った。


「柚月君、乱闘騒ぎとか起こしてたからね。今はその体になって喧嘩できなくなったみたいだけど、どうして手術刑になったのか、って噂も色々流れてる。だから正直、信用はできない」


彼女は、続ける。


「でもね、今の柚月君は一時的にだけど、あんまり怖くないかな」

水上はさらに「なんでだと思う?」とやや低めの声で言う。


「……わからない」


「それはね、柚月くんが私を怖がってるからだよ」

水上はもみあげに垂れ下がった赤茶色の髪をつまみながら切れ長の瞳を光らせ、言った。


「俺が、水上さんを……?」

その感情に気付かされた瞬間、弥隼の全身の毛が一斉に逆立ち、喉元につっかえた何かが痛む感触に襲われる。


「うん。柚月君って意外と、臆病なんだね」

彼女は目を細めながら翡翠色のヘアピンを整え、笑う。


「私も、臆病だよ」







水上が「自分は臆病だ」と自称していた理由の断片は、数十分後に確認することができた。始業が近づいて教室にぞろぞろと生徒が入ってくるようになった頃、水上の座席に一人の女子生徒がやってきたのだ。


「ねぇ水上、英語の宿題見せてよ」


「……え、また?おとといも写してたけど……」


「いいでしょ、私たちの仲じゃん?」


その女子生徒が水上のノートを持って行った後、水上はどこか浮かれない表情をしていた。そしてため息をつきながら弥隼に苦笑いを送る。


「宿題見せるの、嫌なのか?」


「……うん。深い理由とかがあるわけじゃなくて、ただ自分の頑張りが否定されるような気がしてイヤってだけ、なんだけどね。でも断れないんだ。バカでしょ」


そう言ってポニーテールの結び目を気にする彼女の表情には、何かが抜け落ちているような気がした。


その日はそれ以降、彼女と話すこともなく一日を終えた。そもそも彼女は弥隼とは違ってクラスでもそれなりに人気のある生徒だ。わざわざ自分のような爪弾き者と話す理由なんて皆無なのだろう。だからそれ以降で印象に残るような出来事といえば、吉田がなぜか水道水で薄めてまずくなったコーヒー牛乳をかわりに飲まされることくらいだった。


「柚月、水上さんとはどんな感じ? ひょっとして、もうキモがられちゃった?」


「うるせっ、お前には関係ないだろ」


放課後、面談を終えた弥隼の元に吉田が飛び込んできた。二人は誰もいなくなった教室の机の上に座りながら、帰りの支度をする。


「なにをー。柚月が水上さんと友達になりたいって言うんだから僕も話しかけやすい空気作ってたんだよ? 一人じゃ友達も作れない小心者め」


「うるせっ」


弥隼は得意げな顔をする吉田のおでこに軽くチョップをおみまいした。


「ま、いーんじゃない?仮に友達が作れなかったとしても、ボクってもんがあるんだし?気負わなくていいんだよ」


「水上さんに嫌われたなんて一言も言ってないんだが」


「はいはい。というわけで、僕はトイレに行ってくる」


吉田はつかみどころのない態度のまま扉を開け、そのまま行ってしまう。一人になった教室のカーテンを開き、弥隼はぼーっと空を見つめてカラスを数える。一匹。二匹。三匹。無造作に頭上を飛び回る彼らを見上げながら、弥隼はため息をついて独り言をこぼした。


「人間関係、わからね~」


「腐らないで、済みそう?」

弥隼が本音を吐いたその時、背後から聞き覚えのある声でやまびこが返ってきた。


「……え?」弥隼はその声にぎょっと反応して、慌てて振り返る。背後の机に座り込んで赤茶色のポニーテールを揺らしていたのは、弥隼の心を悩ます少女。


「わ、わわっ!?み、水上さん? どうして……」


「気分。なんとなくだよ。それにしてもホントに私のこと怖がってるんだね? インターホン鳴った時の犬みたいな反応だったよ」


彼女は薄笑いを浮かべながら、続ける。

「柚月君ってイメージと結構、違うんだね」


「いつからいたの……」


「吉田君と話してる時から教室の外で聞いてたよ?」


「……へ?」そんな前から、聞かれていたのか。


「ということは、会話の内容も全部……」


「うん。筒抜けだね」


彼女はそう言ってカーテンの端をつまみながら、笑った。


「それで柚月君。私と友達になりたいんだって?」

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