第29話 初めて”女の子”になった日

数日後の夕方、弥隼は神妙な面持ちで家族共用のパソコンと向き合っていた。


コンビニで買ったアマゾンのギフトカード番号を震える手で一文字ずつ入力する。誰もいない部屋をきょろきょろと見回しては、検索欄にある文字を打ち込んでいた。


いちおう持っておくだけだから。小さな声で自分に言い聞かせながら、購入ボタンを押してしまう。開けてはいけない箱を開けてしまったような緊張感が胸に広がった。


また数日がたって、それを受け取ったのは近所の配達ボックスだった。悪いことをしているわけでもないのに、常に周りを意識しながらそそくさと焦るように鞄の中へ放り込む。なんだか泥棒にでもなった気分だ。


家に帰って、自室で包装をそっとほどいた。


手のひらに感じるのは、柔らかな毛束の流れるような感触。艶やかな黒は天井の光に反射して、漆のような光沢を帯びている。弥隼がひょいとそれを取り出してみると、頬がどんどん熱くなっていくのを感じた。


黒髪の、ミディアムロングのウィッグ。


自分から買ってしまうだなんて、冷静に考えて恥ずかしすぎる。


いや、これはなんかあったときのためのもの。勝負服みたいなもんだ。べつに、普段からつけようってわけじゃない!


心の中で復唱しながら、ウィッグの袋をひきだしの一番奥にしまった。


翌日。


「ねーちゃん、なにその髪!」


「あは……あはは……これはその、いつもの髪だと男っぽすぎてなんかきもいかなって……だからつけてみただけ……」


「そうなんだ」


ウィッグをつけてしまったのは、ほんの出来心というか、好奇心というか……自分でもよくわからない。とにかく、弟の反応をそれ以上聞くことに耐えられそうもなかったので、弥隼はささっと外に出た。


最近の自分は、ほんとうにどうかしている。そういうふうに自覚はしているのだが、こうやって外に出てしまった以上後には引けない。


肩まで垂れ下がった黒髪が、首に纏わりついている。朝日に照らされて落ちた影は、完全に女の子のシルエット。


弥隼は、いつもの曲がり角にあるいつもの公園のベンチにしゅんと座った。今日は吉田の到着が遅い。毎日7時40分には合流することになっているのだが、45分を回ってもやってこない。寝坊でもしているのだろうか。


もしこのまま吉田がこなかったら。……この姿のまま、ひとりで通学路を冒険する勇気は自分にない。


恥ずかしさをごまかすようにウィッグの横髪を指に巻きつけながら、ベンチに座り込んでいた。吉田のばか、とちいさく呟きながら。そうしていると時計の針が47分を指したころ、彼はやってきた。


「うわあ!柚月、その髪どうしたの!」弥隼の顔を確認するように覗きこんだ吉田はそう言い放った。


「も、もう……遅いってば」弥隼はやや怒り気味に吉田の肩を叩く。


「ごめん、ベッドから抜け出せなくてさ。それにしても、その髪どうしたの?一日でずいぶんのびたね?」


「ばか、ウィッグだよ!」


「あ、そっかあ。それで、なんでかぶってるの?」


「わ、わるいかよ」


弥隼がそっぽを向くと、吉田は彼のウィッグが単なるおしゃれであることを理解したのか、薄く微笑みながら、


「ううん、似合ってる!」と言った。


「そ、……そっか」


教室に到着すると、好奇の視線が一斉に向けられる。普段でさえ他人の目を気にしてしまうのに、今日はクラスメイトの存在感をいっそう重く感じる。そんな喧騒に包まれていると、周囲の声が耳に入り込んだ。


「あれって柚月?」


「うわ、やば」


「でも、案外サマになってない?」


「70点はあるな」


弥隼は歯をぎちぎちと食いしばりながら、机に座って俯く。


(どうせみんなすぐ慣れる……気にしたら負けだ)


吉田はそんな空気感を読むこともなく、無邪気に跳ねながら弥隼の机に手をつく。


「70点ってのはひどいよね。ぼくが点数をつけるとしたら、そーだな……」


「点数なんてつけるなっ、ばか」


小声で言いながら吉田の脇腹をつねると、点数をつけていた男子グループから笑いがどっと上がった。


居心地の悪い笑い声だ。


こんな地元から抜け出して、もっときちんとした高校に入ろうという意志が、一層強くなっていく。


***


「ゆづちゃん、髪、かわいいと思うよ」


昼休み。いつものテラス席で合流した水上さんは穏やかな面持ちでそう言った。


「あ、ありがと……」


「しかし、柚月も急におしゃれする気になってどうしたの?びっくりしたよ」


「そ、それは……えっと……」


「吉田くん、ゆづちゃんはもう女の子なんだからかわいくなりたくなる時もあるよ」


「そ、そういうことだ」


弥隼はこほんと咳払いをしながらセーターの袖の毛玉をとり、言った。


風に送られてきたキンモクセイの香りが鼻を抜けて、リラックス気分に包まれながらクリームパンにかじりついた。


そんなふうに昼食を摂っていると、近くの席にいた男子グループの一人が手を振ってきた。


「おーい、柚月ちゃん!」


クラスメイトのお調子者だった。特に問題行動はしないし成績も平凡だけれど、人間関係は広いタイプの人間。


弥隼は驚いていた。水上さんじゃなくて、自分を呼んだ?なんで?こんなふうに声をかけられるのは初めてなので、なにか裏があるのではないかと警戒していた。


「それ、似合ってるよ」


「へ?あ、あ、うん……そう」


男子の言葉を素っ気なく受け流すと、彼はそのまま手を振って去っていった。


彼の意図が理解できない弥隼は「今の、からかわれてたよな?」と狼狽した様子で言う。


「うーん、どうだろうね。彼っていつも女の子狙ってグイグイくる子だから、単純にゆづちゃんがかわいくてちょっかい出してただけかもよ?」


「は?なにそれ、キモ……」弥隼は顔を引きつらせながら言った。


「ゆづちゃんも気をつけたほうがいいよ、元男子だからって、手頃だと思って狙ってくるやつがいるかもしれないから」


弥隼は水上の提言を聞いて「そっか……」と呟いた。全然知らないやつに女として見られるってなんか、気持ち悪い。


「え、じゃあ僕も柚月に警戒されちゃうの?」


「するわけないだろ、いままで仲良くなかったやつに急に迫られても困るって話だ」


「ああ、そういうことか。たしかにそれなら僕も困られる側でよく経験してるな」


弥隼が呆れて溜息をついていると、吉田は頬杖をついた。


「じゃあ、今まで通り友達でいられるね」


「そ、そりゃそうだろ……」


そうすると吉田は”友達同士”の距離感で、目を細めながら弥隼の肩に頬を押し付けてきた。


正面では、水上が瞳を半開きにしながら頬をふくらませ、じーっとこっちを見ていた。なんとも形容しがたいその表情が、嫉妬を浮かべていることに気づくには時間がかかった。


吉田がじゃれてくる度に、彼女のほっぺたがどんどん膨らんでいく。


「あ、あの……吉田、そろそろ離れて……」


「えー?でもね、柚月が女の子っぽくなってから、こうしてるのがなぜかいつもより心地いいんだよね」


ばか、そんなこと言ったんじゃ水上さんが余計に嫉妬しちゃうだろ……


──いや、ちょっと待て。それよりもやばいことがある気が。


いま、吉田、なんて言った?


こいつ、俺のこと女の子として見てくれてる?


いや、そんなわけない。ない。どうせ吉田のことだから、きっと空気読まずにテキトー言っちゃっただけだ。そうに違いない。そう考えているのに、心臓が高鳴るのが止まらない。まずい。この体勢だと、ドキドキしてることが吉田にバレてしまう。


「吉田くーん?友達だからといって、異性にそういうことするのは、よくないんだよ?」


水上が殺気混じりの笑顔を浮かべて言うと、べったりくっついていた吉田の体がなんとか離れた。


「えー?異性って、くっついたりしちゃだめなの?友達なのに?」


「うん。そういうのは誰とでもすることじゃなくて、友達よりももっと親しい人とするものだから」


水上の言葉を聞いて、吉田は「ふぅん」と考え込むと、しばらくしてから、言った。


「でも、それなら僕、柚月とくっついても大丈夫だ!」


「え?なんで?」水上は得体のしれない吉田の発言を察知し、食いつくように聞いた。


「だってぼく、もうすぐ性転換手術うけることになったから」


「え?」


「は?」


「だから、異性じゃなくなるね!」


数秒の沈黙の後、ふたりは「ええええっ!」とひっくり返るような叫び声をあげた。

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