第20話:「霧の中の自分」

 蒼井凛のオフィスに、柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。ウォールナット材の本棚に並ぶ専門書の背表紙が、温かみのある光を反射している。凛は深みのあるボルドーのブラウスに身を包み、デスクに向かっていた。その指先で、ペンダントトップの一粒ダイヤモンドを無意識に撫でている。


 ノックの音とともに、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女のセージグリーンのスクラブは、病院の無機質な雰囲気を和らげる効果があった。


「凛先生、次の患者さんの資料です」


 紫苑は凛の机に向かって歩きながら、タブレットを手渡した。


 凛はタブレットに目を通し、眉をひそめた。


「羊蹄美津子、28歳。離人症の症状が顕著……か」


 紫苑は凛の表情の変化を見逃さなかった。


「難しい症状なのでしょうか?」


 凛は深いため息をつき、椅子の背もたれに身を預けた。


「離人症は……本人の現実感の喪失が最大の問題なの。一筋縄ではいかないわ……」


 その時、受付から内線が鳴った。


「蒼井先生、羊蹄様がいらっしゃいました」


 凛は深呼吸をし、心を落ち着かせた。


「わかりました。案内してください」


 数分後、羊蹄美津子が部屋に入ってきた。彼女は小柄な体つきで、大きな目が特徴的だった。しかし、その目は焦点が定まっていないようで、部屋の中を彷徨っているように見えた。


「こんにちは、羊蹄さん。私が担当の蒼井凛です」


 凛は優しく微笑みかけたが、美津子の表情は変わらなかった。


「はい……こんにちは」


 その声は、まるで遠くから聞こえてくるようだった。


 凛は美津子をソファに座るよう促し、自身も向かい側に腰を下ろした。


「羊蹄さん、今日はこれから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。リラックスして、私の声に従ってください」


 美津子は小さく頷いた。その仕草さえも、どこか現実味を欠いているように見えた。


 凛は目を閉じ、静かに美津子の手に触れた。そして、彼女の心の中へと意識を沈めていった。


 凛の意識が美津子の内面世界に到達した瞬間、予想通りの光景が広がっていた。それは霧に包まれた広大な空間で、輪郭のはっきりしたものが何一つ見当たらなかった。


「これが……羊蹄さんの心の中」


 凛は周囲を見回した。霧の中から、かすかに人影のようなものが見えた。


「羊蹄さん?」


 凛が声をかけると、人影がゆっくりと近づいてきた。それは確かに美津子だったが、まるで透明な膜に包まれているかのように、はっきりとは見えなかった。


「私……私はここにいるの?」


 美津子の声は風のように儚く、どこから聞こえてくるのかはっきりしなかった。


 凛は慎重に美津子に近づいた。


「ええ、ここはあなたの心の中よ。私たちは今、あなたの内面を探索しているの」


 美津子は困惑したような表情を浮かべた。


「でも……私にはよく分からないの。自分が誰なのか、どこにいるのか……全てが曖昧で……」


 凛は美津子の言葉に深い共感を覚えた。離人症の本質的な苦しみがそこにあった。


「羊蹄さん、一緒に探していきましょう。あなたの記憶や感情を。きっと、それらはこの霧の中のどこかにあるはずよ」


 美津子は躊躇いがちに頷いた。


 二人は霧の中を歩き始めた。時折、霧の中から様々な形が浮かび上がっては消えていく。それは美津子の断片的な記憶や感情の欠片なのかもしれない。


 しばらく歩いていると、霧の中から一つの光る点が見えてきた。


「あれは……」


 凛が声をあげると、美津子も光に気づいた。


「光……私の中にあるもの?」


 二人は光に近づいた。それは小さな、しかし強い輝きを放っていた。


「これが……私?」


 美津子の声には不安と期待が入り混じっていた。


 凛は慎重に言葉を選んだ。


「羊蹄さん、この光は……あなたの本質かもしれません。自分自身の核となる部分、失われていないあなたの一部なのかもしれないわ」


 美津子は震える手を伸ばし、その光に触れようとした。


「でも……怖いの。この光に触れたら、私はどうなってしまうの?」


 凛は美津子の肩に優しく手を置いた。


「大丈夫よ。私がここにいるわ。一緒に向き合いましょう」


 美津子は深呼吸をし、ゆっくりと光に手を伸ばした。指先が光に触れた瞬間、まばゆい光が周囲を包み込んだ。


 霧が晴れていく中、美津子の記憶の断片が次々と現れ始めた。幼少期の楽しかった思い出、学生時代の苦い経験、そして……。


「これは……」


 美津子の声が震えた。目の前に浮かび上がったのは、激しい口論をしている両親の姿だった。


「私が高校生の時……両親が離婚したの。そのとき、私は自分が現実じゃないように感じ始めて……」


 凛は美津子の手をしっかりと握った。


「そうだったのね。そのときの衝撃が、あなたを現実から遠ざけてしまったのかもしれない」


 美津子の目に涙が溢れた。


「でも、私はそんな自分が嫌で……現実から逃げ出したくて……」


 凛は静かに頷いた。


「逃げ出したくなる気持ち、よくわかります。でも、羊蹄さん。あなたはもう一人じゃない。この光を見て。これがあなたの強さ、あなたの本質なのよ」


 美津子は光を見つめ、少しずつ顔を上げた。


「私の……強さ?」


「そう。どんなに辛いことがあっても、あなたはここにいる。生きている。それだけでも、とても強いことなのよ」


 凛の言葉に、美津子の目に決意の色が宿った。


「私……もう逃げたくない。現実と向き合いたい」


 その瞬間、周囲の霧が一気に晴れ始めた。美津子の姿がはっきりと見えるようになり、彼女の目に生気が戻ってきた。


 凛は安堵の表情を浮かべた。


「よかった。羊蹄さん、これが第一歩です。これからも一緒に頑張りましょう」


 美津子は微笑み、凛にしっかりと頷いた。


 凛は意識を現実世界に戻し、ゆっくりと目を開けた。目の前には、涙を流しながらも柔らかな表情を浮かべる美津子の姿があった。


「蒼井先生……ありがとうございます」


 美津子の声には、以前にはなかった確かな存在感があった。


 凛は優しく微笑んだ。


「これからが本当のスタートです。一緒に頑張りましょう」


 診察室のドアをノックする音が聞こえ、紫苑が顔を覗かせた。


「お二人とも、大丈夫でしたか?」


 凛は紫苑に向かってうなずいた。


「ええ、大丈夫よ。羊蹄さんは、とても勇気のある一歩を踏み出してくれたわ」


 紫苑は安堵の表情を浮かべ、美津子に優しく微笑みかけた。


 診察室の窓から差し込む夕日の光が、三人の姿を温かく包み込んだ。美津子の目には、かすかな希望の光が宿っていた。


 凛は静かに思った。

 

(これで終わりじゃない。でも、大切な始まりよ)


 そして、彼女は次の診察に向けて、静かに心の準備を始めた。

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