第12話:「心の深淵を照らす光」

 蒼井凛は、クリニックの窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。首元でさりげなく光る一粒ダイヤのネックレスが、凛の凛とした佇まいに華やかさを添えていた。


 ノックの音が静寂を破る。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女は清潔感のあるナース服に身を包み、明るい笑顔を浮かべていた。


「おはようございます、凛先生。今日の患者さんの資料をお持ちしました」


「ありがとう、紫苑」


 凛は紫苑から渡された資料に目を通し始めた。その瞳に、次第に深い思慮の色が宿っていく。


「佐藤雄一さん……35歳、元警察官か」


「はい。3年前の人質立てこもり事件でPTSDを発症し、その後退職されたそうです」


 紫苑の表情に、僅かな陰りが差す。


「現在は無職で、アルコール依存症の兆候も見られるとのことです」


 凛は資料から顔を上げ、紫苑と視線を合わせた。


「なるほど。かなり難しいケースになりそうね」


「私もそう思います。でも、凛先生なら……」


 紫苑の言葉が途切れる。彼女は凛の特殊な能力について薄々感づいてはいるが、決して口には出さない。一方の凛も、凛が紫苑の心だけを読めないことを、紫苑には秘密にしている。それが二人の暗黙の了解だった。


「ええ、全力を尽くすわ」


 凛は微笑みながら答えた。その表情には、これから直面する困難への覚悟が滲んでいた。


「紫苑、治療中はいつも通り、バイタルチェックをお願いするわ」


「はい、お任せください」


 紫苑は凛の言葉に頷きながら、何か言いかけて躊躇う。


「どうかしたの?」


「いえ……ただ、凛先生」


 紫苑は真剣な眼差しで凛を見つめた。


「どうか無理をしないでください。患者さんを救うのと同じくらい、先生ご自身の心も大切にしてくださいね」


 凛は紫苑の言葉に、心の奥底で温かいものが広がるのを感じた。


「ありがとう、紫苑。あなたがいてくれて本当に心強いわ」


 二人は互いに微笑みを交わし、これから始まる治療への準備を整えていった。


 しばらくして、ノックの音が再び響く。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、ドアが開いた。


 そこには、一見すると普通のサラリーマンのような男性が立っていた。しかし、その目は虚ろで、顔色は明らかに優れない。スーツは高級そうだが、少しシワが目立つ。


「佐藤雄一さんですね。私が担当医の蒼井凛です」


 凛は穏やかな笑顔で雄一を迎えた。


「よろしく……お願いします」


 雄一の声には力がなく、目も合わせようとしない。


「こちらへどうぞ」


 凛は雄一を診察台へと案内した。紫苑は静かに部屋の隅へ下がり、バイタルチェックの準備を始めた。


「佐藤さん、今日はゆっくりお話を聞かせてください」


 雄一は小さく頷いたが、その表情からは何の感情も読み取れない。


「これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」


 雄一は言われるままに目を閉じた。その表情には、どこか諦めたような色が浮かんでいる。


 凛は静かに雄一の手を取った。その瞬間、彼女の意識は雄一の心の中へと沈んでいった。


 周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。


 凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。


 暗く冷たい迷路のような建物の内部。壁には血痕が残り、至る所に銃撃の跡がある。遠くから悲鳴や銃声が断続的に聞こえてくる。


(これは……あの事件の再現?)


 凛は慎重に歩を進めた。床はところどころ腐食しており、足元には細心の注意を払う必要がある。


 突如として、床が崩れ落ちた。


「きゃっ!」


 思わず声が漏れる。凛の体は暗い穴の中へと落下していく。


 落下から目が覚めたとき、凛は底知れぬ闇の中にいた。周囲を見回すと、無数の目が彼女を見つめているのが分かった。


(これは……罪悪感?  それとも恐怖?)


 凛は震える手を押さえつつ、冷静に状況を分析しようと努めた。


(迷路のような建物は、複雑な状況や逃げ場のなさを表しているのかもしれない。血痕や銃撃の跡は、暴力的な過去の経験。悲鳴や銃声は、繰り返し蘇るトラウマの記憶……)


 そう考えていると、闇の中から微かな啜り泣きが聞こえてきた。


「誰かいるの?」


 凛は声をかけた。すると、泣き声がピタリと止んだ。


「大丈夫よ。私はあなたを助けに来たの」


 闇の中から、おぼろげな人影が見えてきた。それは縮こまるようにして座り込んでいる。


「佐藤さん……?」


 凛が近づくと、そこには確かに佐藤雄一がいた。彼は両手で頭を抱え、震えている。


「俺が……俺が殺したんだ……」


 雄一の言葉に、凛は一瞬たじろぐ。しかし、すぐに冷静さを取り戻した。


「何があったの?  教えてくれる?」


 雄一は顔を上げ、凛を見つめた。その目には、深い絶望と後悔の色が宿っていた。


「3年前……人質立てこもり事件で……」


 雄一の声は震えていたが、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。


「犯人が人質を盾にして……でもあいつは俺に銃口を向けていて……俺は、俺は撃たざるを得なかったんだ……」


 その瞬間、周囲の闇が揺らぎ、一瞬だけ事件の光景が浮かび上がる。銃声、悲鳴、血しぶき……。


「でも……俺の弾は人質に当たってしまった……」


 雄一の言葉に、凛は胸が締め付けられるような痛みを感じた。


「その後、犯人に撃たれて……俺の相棒も……」


 雄一は再び顔を伏せ、声を詰まらせた。


 凛は静かに雄一の隣に座った。


「佐藤さん、あなたは最善を尽くしたのよ。あの状況で、誰もが同じ選択をしたはず」


「でも……俺は人を殺してしまった……守るべき人を……」


 雄一の言葉に、凛は深く考え込んだ。


(どうすれば……この人を救えるだろう?)


 暗闇の中、凛は佐藤雄一の痛みに満ちた告白を聞きながら、必死に打開策を探っていた。彼女の瞳が揺れ、思考が高速で巡る。そのとき、突如として光が差したかのように、凛の脳裏にある情報が蘇った。


 それは数日前、紫苑が何気なく話していた内容だった。事件の人質となった方の家族が、警察に佐藤雄一との面会を希望しているという話。当時、凛はそれを聞き流していたが、今この瞬間、その情報が決定的な意味を持つことに気づいた。


 凛は息を深く吸い込み、声に確かな強さを込めて語り始めた。


「佐藤さん、知っていますか?  人質のご家族があなたに会いたがっているそうよ」


 その言葉が、重い沈黙を破った。


 雄一の体が微かに震え、ゆっくりと顔を上げる。彼の目は、驚きと混乱、そして僅かな希望が入り混じった複雑な感情を湛えていた。髪の隙間から覗く彼の瞳は、まるで長い冬の後に初めて見る春の光のように、かすかに輝きを取り戻していた。


「嘘だ……俺なんかに……」


 雄一の声は震え、言葉の端々に不信と自己否定が滲んでいた。彼の表情には、凛の言葉を信じたいという願望と、それを受け入れることへの恐怖が交錯していた。


 凛は雄一の反応を見逃さなかった。彼の心に生まれたわずかな揺らぎを感じ取り、そこに光を当て続けることを決意する。彼女は穏やかでありながら、確信に満ちた口調で語り続けた。


「本当よ。彼らは、あなたを責めてなんかいない。むしろ、感謝しているそうよ」


「嘘を言うな! 彼らは俺を責めこそすれ、感謝などするわけがない!」



 凛は雄一の激しい否定に動じることなく、静かに、しかし力強く語り続けた。


「佐藤さん、あなたの気持ちはよくわかります。でも、これは本当なのです」


 凛は雄一の目をまっすぐ見つめ、ゆっくりと説明を始めた。


「人質のご家族は、事件の詳細を警察から聞いたそうです。あなたが最後まで人質の命を守ろうとしたこと、そして犯人を倒すために自らの身を危険にさらしたことを」


 雄一の表情が僅かに和らぐ。凛はそれを見逃さず、さらに続けた。


「彼らはこう言っていました。『佐藤さんのおかげで、最悪の事態は避けられた。死んだ娘のことに悔いがないといったら嘘になります。しかしもし彼がいなければ、もっと多くの犠牲者が出ていたかもしれない』と」


 雄一の目に、驚きの色が広がる。


「そんな……」


「そうなのです。佐藤さん、あなたは最善を尽くしたのです。完璧な結果ではなかったかもしれません。でも、あなたの勇気と決断が、多くの命を救ったのです」


 凛は静かに雄一の肩に手を置いた。


「人質のご家族は、あなたに直接お礼を言いたがっています。彼らは、あなたの苦しみを少しでも和らげたいと思っているのです」


 雄一の目に、大粒の涙が溢れ出した。


「俺は……俺は……」


「あなたは英雄なのです、佐藤さん。自分を責め続けるのではなく、あなたの行動が持つ意味を受け入れてください」


 凛の言葉が、雄一の心の奥深くまで染み渡っていく。長い間閉ざされていた心の扉が、少しずつ開いていくのが感じられた。


「でも……俺には……その資格が……」


「その資格は十分にあります。あなたの経験は、これから多くの人の命を救う可能性を秘めています」


 雄一の表情が、少しずつ変化していく。自責の念は依然として残っているものの、新たな希望の光が芽生え始めているのが見て取れた。


「先生……本当に、彼らに会っても……いいんでしょうか」


 凛は温かな笑顔を浮かべ、力強く頷いた。


「もちろんです。それが、あなたと彼らの新たな一歩になるはずです」


 雄一の目に、久しぶりの決意の色が宿った。彼は震える手で顔を覆い、深いため息をついた。それは、長い間背負ってきた重荷を少しずつ下ろし始めた音のようだった。


 佐藤の中で、凛の言葉一つ一つが、雄一の心に染み込んでいくようだった。彼の目に、驚きと戸惑い、そして微かな希望の光が宿り始める。それは小さな火花のようだったが、確かに存在していた。


 雄一の表情が徐々に和らぎ、長い間閉ざされていた心の扉が、わずかに開き始めたように見えた。彼の肩の力が少し抜け、深いため息がもれる。


 凛は静かに待った。雄一の中で、自責の念と希望が激しくぶつかり合っているのを感じ取っていた。彼女は、この瞬間が雄一の人生を大きく変える転換点になる可能性を直感していた。


 周囲の闇が少しずつ晴れていくように感じられた。希望の光が、二人を包み込み始めていた。


「佐藤さん、一緒に這い上がりましょう。この穴から、この闇から」


 凛は立ち上がり、雄一に手を差し伸べた。


 雄一は躊躇いながらも、ゆっくりとその手を取った。


 二人が上を目指して歩き始めると、不思議なことに周囲の闇が少しずつ晴れていった。階段が現れ、二人はそれを一歩一歩上っていく。


 頂上に着くと、そこには警察学校が広がっていた。若い訓練生たちが、真剣な表情で学んでいる。


「佐藤さん、あなたの経験は無駄じゃない。それを次の世代に伝えることで、多くの命を救えるかもしれない」


 雄一の目に、涙が溢れた。


「俺には……そんな資格が……」


「あります。あなたこそが、本当の正義と責任を教えられる人なのよ」


 凛の言葉に、雄一の表情が少しずつ和らいでいった。


 そして、二人の意識は現実世界へと戻っていった。


 目を開けると、そこには診察室の光景が広がっていた。紫苑が心配そうな表情で二人を見つめている。


「お帰りなさい、凛先生、佐藤さん」


 紫苑の声に、凛は安堵の笑みを浮かべた。


「ありがとう、紫苑」


 凛は雄一に向き直った。彼の頬には、涙の跡が残っている。


「佐藤さん、いかがでしたか?」


 雄一は言葉を探すように、しばらく沈黙した後、静かに口を開いた。


「先生……俺は……生きていていいんでしょうか」


 その言葉に、凛は優しく微笑んだ。


「もちろんよ。あなたには、まだまだやるべきことがたくさんある」


 雄一の目に、かすかな希望の光が宿った。


「これからどうしたいですか?」


「俺は……」


 雄一は深く息を吸い、決意を込めて言った。


「やっぱり警察学校で、後輩たちに教えたいです。俺の経験を、間違いを、そして学んだことを」


 凛は満足げに頷いた。


「素晴らしい決断です。その道のりは決して楽ではないでしょう。でも、私たちがサポートします」


 紫苑も優しく微笑みかけた。


「一緒に頑張りましょう、佐藤さん」


 診察室の窓から差し込む陽光が、三人の姿を優しく包み込んだ。それは、新たな希望の始まりを告げているかのようだった。


 後日、雄一が再び診察室を訪れた。彼の表情には、以前には見られなかった生気が宿っていた。


「先生、ありがとうございました。警察学校での講義を受け持つことになりました」


 凛は心からの笑顔で雄一を迎えた。


「よかったわ。きっと素晴らしい講義になるでしょう」


 雄一は照れくさそうに頭をかいた。


「まだ自信はないですが……でも、頑張ります」


 凛は深く頷いた。


「佐藤さん、覚えていてください。心の深淵を覗き込むことは怖いかもしれない。でも、そこにこそ、私たちを癒す光が隠れているのかもしれないわ。その光を見つけ出す勇気さえあれば、誰でも再び歩み始めることができるのよ」


 雄一の目に、決意の色が宿った。


「はい。ありがとうございます、先生」


 診察室に差し込む陽光が、まるで未来への道を照らすかのように輝いていた。

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