第11話:「嘘の城壁を越えて」
蒼井凛のクリニックの診察室は、柔らかな午後の日差しに包まれていた。凛は窓際に立ち、外の景色を眺めながら、これから始まる診療の準備をしていた。彼女の白衣は清潔感があり、首元には母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスが控えめに輝いている。
静寂を破るように、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。紫苑はラベンダー色のスクラブを身にまとい、耳元には小さなパールのピアスが揺れていた。
「凛先生、次の患者さんの資料です」
紫苑はクリップボードを凛に手渡しながら、少し躊躇うように口を開いた。
「今回の患者さん、少し特殊なケースかもしれません」
凛は眉をひそめ、資料に目を通した。
「中村真理子さん、35歳。主訴は……全てが嘘?」
凛の声には驚きと興味が混じっていた。
「はい」
紫苑は頷いた。
「予約の電話の時点で、明らかに矛盾する情報をいくつも話していました。でも、その声には切実さがあったんです」
凛は深く考え込んだ。
彼女の瞳、左の琥珀色と右の碧色が、何かを見抜こうとするかのように輝いていた。
「なるほど。虚言癖というより、何か深刻な理由があるのかもしれないわね」
「私もそう思います」
紫苑は真剣な表情で答えた。
「凛先生なら、きっと真理子さんの本当の声を聴き取れると思います」
凛は微笑んだ。紫苑の言葉には、いつも彼女を勇気づける力があった。
「ありがとう、紫苑。全力を尽くすわ」
紫苑は頷き、部屋を出て行った。凛は深く息を吸い、心を落ち着かせた。彼女の特殊な能力を使う時は、いつも緊張感が走る。誰にも言えない秘密の力。それは祝福なのか、呪いなのか。凛自身、未だにわからないでいた。
しばらくして、ドアが再び開いた。
入ってきたのは、小柄な女性だった。肩にかかるストレートヘアは艶やかだが、その表情には何か虚ろなものがあった。ベージュのワンピースは上品だが、どこか着崩れているような印象を受ける。
「中村真理子さん、こちらが担当医の蒼井凛先生です」
紫苑の紹介に、真理子はぎこちなく頭を下げた。
「よろしくお願いします。私、実は超有名な女優なんです。みんな私のことを知っているはずです」
その言葉に、凛は一瞬戸惑いを覚えた。しかし、すぐに冷静さを取り戻す。
「こちらこそ、よろしくお願いします。どうぞ、お掛けください」
凛は真理子を診察台に案内した。紫苑が静かに部屋を出ていく。
「それでは、中村さん。今日はゆっくりお話を聞かせてください」
真理子は落ち着きなく座り、目を泳がせながら話し始めた。
「私、本当は宇宙飛行士なんです。先日も月に行ってきました。でも、それは極秘任務だから誰にも言えなくて……」
凛は静かに聞きながら、真理子の言葉の奥にある本当の叫びを聴こうとしていた。嘘の連続の中に、彼女の魂の痛みを感じ取ろうとしていた。
「中村さん」
凛は優しく、しかし毅然とした態度で話しかけた。
「あなたの話、全てを受け止めます。でも、ここではありのままのあなたでいいんです。誰もあなたを傷つけません」
真理子の目に、一瞬、驚きの色が浮かんだ。しかし、すぐに取り繕うように笑顔を作る。
「私、嘘なんてついていません。全部本当のことです」
凛は深く息を吸い、決意を固めた。
「中村さん、これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」
真理子は戸惑いながらも、言われるままに目を閉じた。
凛も目を閉じ、そっと真理子の手に触れた。そして静かに、真理子の心の中へと意識を沈めていった……。
凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。
果てしなく広がる平原の中央に、巨大な城が聳え立っている。その城壁は、透き通るガラスでできていた。外からは中が見えるのに、中からは外が歪んで見える不思議な構造だ。
凛は静かに城に近づいた。その足元には、しっとりとした草が生えている。草の一本一本が、真理子の人生の一瞬一瞬を表しているかのようだ。
「これが、中村さんの心の中……」
凛の呟きは、風に乗って消えていった。
城壁に近づくにつれ、中の様子がはっきりと見えてくる。そこには、様々な場面が映し出されていた。幼い真理子が泣いている姿、大人たちに叱られている場面、一人で佇む姿……。全ての映像が、どこか歪んでいる。
凛は冷静に観察し、推理を重ねていく。
(この透明な城壁は、真理子さんが築いた防御機制を表しているのね。外からの攻撃は防げても、そのせいで自分自身を閉じ込めてしまっている)
凛は城壁に手をかけた。冷たく、そして硬い。簡単には崩せそうにない。
(透明なのは、真理子さんの傷つきやすさの表れかもしれない。他人の目を気にしすぎて、本当の自分を隠してしまっているのね)
凛は城の周りを歩き始めた。歩くにつれ、様々な場面が目に飛び込んでくる。
ある場面では、小学生くらいの真理子が発表している。しかし、クラスメイトたちの笑い声が聞こえ、真理子の顔が歪んでいく。
(失敗の経験が、彼女を追い詰めているのかもしれない)
別の場面では、高校生の真理子が友達と話している。しかし、真理子の口から出る言葉は全て嘘のようだ。友達の表情が、徐々に冷たくなっていく。
(人間関係を築くのが怖くて、嘘という仮面を被ってしまったのね)
凛は城の中心へと歩を進めた。そこで目にしたのは、小さな真理子が泣いている姿だった。周りには、批判的な言葉や冷ややかな視線が、まるで霧のように漂っている。
「見つけたわ……」
凛は静かに、しかし確固たる決意を持って、城壁に両手を当てた。
「中村さん、聞こえますか? 私よ、蒼井凛です」
小さな真理子が、おずおずと顔を上げる。その目には、深い悲しみと恐れが宿っていた。
「大丈夫よ。もう一人じゃない。あなたの本当の姿を見せても大丈夫。誰もあなたを傷つけません」
凛の言葉が、城内に響き渡る。すると、城壁がわずかに震え、溶け始めた。
「どうして……どうして私の本当の姿なんて……」
小さな真理子の声が、かすかに聞こえてきた。
「あなたの本当の姿こそが、最も大切なものよ。嘘の仮面を脱いで、ありのままの自分を受け入れてみて」
凛の言葉に、城壁の溶解が加速する。周りの景色が、徐々に鮮明になっていく。
「でも、私……私はいつも批判されて……」
「それは過去のこと。今、ここにいる私は、あなたをありのまま受け入れる準備ができているわ」
凛の言葉に、小さな真理子の目に涙が浮かんだ。その涙とともに、城壁が完全に溶けていく。
周りの景色が一変した。批判の言葉や冷たい視線は消え、代わりに穏やかな光が広がっている。
「中村さん、見てごらんなさい。これがあなたの本当の姿よ」
小さな真理子が大きくなり、本来の姿に戻っていく。その顔には、初めて安らかな表情が浮かんでいた。
「私……私、もう嘘をつかなくていいの?」
「ええ、そうよ。あなたはありのままで、十分に価値があるの」
真理子の顔に、安堵の笑みが広がった。
凛は静かに目を開けた。現実の診察室に戻ってきたのだ。真理子もまた、ゆっくりと目を開けた。
「どうでしたか、中村さん?」
診察室に静寂が戻った後、凛は真理子の表情を注意深く観察していた。彼女の目には、まだ不安と迷いが残っているのが見て取れた。
凛は深く息を吸い、決意を固めた。彼女は、真理子の完全な回復のためには、もう一歩踏み込んだ介入が必要だと感じていた。
「中村さん」
凛は真剣な表情で口を開いた。
「実は、あなたの治療記録を見て、ある重大なことに気づきました」
真理子は身を乗り出すように凛を見つめた。
「何でしょうか?」
凛は一瞬躊躇したが、意を決して言葉を続けた。
「あなたには、末期の病気が見つかっています。余命は……おそらくあと半年ほどでしょう」
真理子の顔から血の気が引いた。
彼女の目は恐怖と絶望で見開かれ、全身が震え始めた。
「そ、そんな……嘘でしょう?」
「私は医師として、真実を伝える義務があります」
凛は冷静を装いながら答えた。
真理子は崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。涙が頬を伝い落ちる。
「どうして……どうして私が……」
凛は真理子の反応を見守りながら、心の中で時間を数えていた。そして30秒後、彼女は真理子に近づき、優しく肩に手を置いた。
「中村さん、今のは嘘です」
真理子は混乱した表情で凛を見上げた。
「え?」
「あなたは健康です。末期の病気なんてありません」
真理子の顔に、怒りと安堵が交錯する。
「な、何てことを……!」
「中村さん、今のあなたの気持ちを、よく覚えていてください」
凛は真剣な眼差しで語りかけた。
「これが、嘘をつかれた人の気持ちなのです」
真理子は凛の言葉に、はっとした表情を浮かべた。
「私が……私がいつも周りの人にしていたこと……」
「そうです。嘘は、相手を深く傷つけ、信頼関係を壊してしまいます」
真理子の目に、新たな涙が浮かんだ。しかし今度は、それは悔悟の涙だった。
「先生、私……本当に申し訳ありませんでした」
凛は優しく微笑んだ。
「謝る必要はありません。大切なのは、これからどう生きるかです」
真理子は顔を上げ、凛をまっすぐ見つめた。その目には、新たな決意の光が宿っていた。
「私、もう二度と嘘はつきません。たとえ辛くても、自分の本当の姿を見せていきます」
凛は満足げに頷いた。
「その決意が、あなたの新しい人生の始まりです」
診察室の窓から差し込む夕陽が、二人の姿を優しく包み込んだ。それは、真理子の新たな、嘘のない人生の始まりを祝福しているかのようだった。
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