第10話:「無限ループの廊下」
蒼井凛のオフィスは、柔らかな光に包まれていた。窓際に置かれたラベンダーの鉢植えが、心を落ち着かせる香りを漂わせている。凛は白衣の襟元を整えながら、ソファに腰かけた。首元で揺れる一粒ダイヤのネックレスが、朝の光を受けてさりげなく輝いていた。
ノックの音が静寂を破る。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。紫苑の着ているペールブルーのナース服は、彼女の温和な雰囲気をより一層引き立てていた。
「おはようございます、凛先生」
「おはよう、紫苑。今日の患者さんの資料は?」
紫苑はクリップボードを凛に手渡した。
「はい、柳流星さん、25歳です。売れっ子俳優でしたが、現在は心を患って休業中とのことです」
凛は資料に目を通しながら、眉をひそめた。
「症状は?」
「同じ行動を際限なく繰り返す強迫性障害です。特に台詞の練習を1日に100回以上行うそうです」
凛は深く息を吸い、紫苑の目を見つめた。
「なるほど……。演技への執着か、それとも何か別の理由があるのかしら」
紫苑は少し躊躇いながら口を開いた。
「凛先生、この方の場合、通常の療法では難しいかもしれません。何か……特別な方法を?」
凛は一瞬、紫苑の言葉に驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「紫苑、私たちにできることをするだけよ。それ以上でも以下でもない」
紫苑は納得したように頷いたが、その瞳には僅かな疑問の色が残っていた。
「わかりました。では、患者さんをお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いします」
紫苑が部屋を出ていくと、凛は深く息を吸った。今回の患者の心の中に、一体何が待っているのか……。凛の心に、わずかな緊張が芽生えた。
しばらくして、ドアが再び開いた。
入ってきたのは、かつては華やかなオーラを放っていたであろう青年だった。しかし今の彼からは、どこか影のようなものが感じられた。ブランドものと思しきシャツとパンツは高級そうだが、少しシワが目立つ。
「柳さん、こちらが担当医の蒼井凛先生です」
紫苑の紹介に、柳は小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
その声には、かつての輝きが感じられなかった。
「こちらこそ。どうぞ、お掛けください」
凛は穏やかな笑顔で柳を診察台に案内した。
「それでは、私は退室いたします」
紫苑が部屋を出ていくと、凛は柳の正面に座った。
「柳さん、今日はゆっくりお話を聞かせてください。そして、あなたの心の奥底にある問題を一緒に解決していきましょう」
柳は少し戸惑ったように凛を見つめた。その瞳には、不安と期待が入り混じっていた。
「先生……僕は、役者としてまたやっていけるんでしょうか? このままじゃ、きっと……」
凛は優しく微笑んだ。
「必ず方法は見つかります。これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」
柳は言われるままに目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。
凛もまた目を閉じ、そっと柳の手を取った。そして静かに柳の心の中へと意識を沈めていった。周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。
凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。
無限に続く廊下。両側には無数の扉が立ち並び、その一つ一つの前で柳が台詞を繰り返している。廊下の床は鏡のように磨き上げられ、天井には煌びやかなシャンデリアが連なっていた。まるで豪華な劇場の舞台裏のようだ。
(これは……柳さんの強迫行動を表しているのね)
凛は静かに歩を進めた。近づくにつれ、柳の声が聞こえてくる。
「もう一度……もう一度やり直さないと」
その声には、焦りと不安が滲んでいた。
「柳さん」
凛が声をかけると、柳はハッとしたように振り返った。
「先生? どうしてここに……」
「あなたの心の中よ。一緒にこの廊下の謎を解いていきましょう」
柳は困惑した表情を浮かべながらも、凛についていくことにした。
二人が歩を進めるにつれ、凛は各扉の前で繰り返される台詞に耳を傾けた。それぞれが柳の出演作品のワンシーンのようだった。
「これらの台詞、あなたの代表作のものね」
「ええ……でも、どれも満足のいく演技ができなかった場面ばかりです」
柳の言葉に、凛は深く考え込んだ。
(満足のいかない演技……それが彼を縛り付けているのかもしれない)
「柳さん、これらの扉の向こうには何があるのかしら?」
「わかりません。怖くて……一度も開けたことがないんです」
凛は柳の目をじっと見つめた。
「一緒に開けてみましょう。きっと、あなたを縛っているものの正体が見えるはずよ」
柳は躊躇したが、凛の優しい眼差しに導かれるように頷いた。
最初の扉を開けると、そこには柳のデビュー作の撮影現場が広がっていた。若かりし日の柳が、何度も同じシーンを撮り直している。
「これは……」
「あなたの記憶ね。でも、なぜこの場面がトラウマになっているの?」
柳は苦しそうに目を閉じた。
「あの時、監督に『才能がない』と言われたんです。それ以来、自信を失って……」
凛は柳の肩に手を置いた。
「でも、あなたはそれを乗り越えて大スターになった。この記憶は、あなたの努力の証なのよ」
柳の目に、小さな光が宿った。
二人は次々と扉を開けていった。そのたびに、柳の過去の苦悩や挫折、そして成功の瞬間が明らかになっていく。
最後の扉の前で、柳は立ち止まった。
「この扉の向こうには……おそらく……私の最大の失敗が待っているんです。開ける勇気が……」
凛は柳の手を優しく握った。
「大丈夫。一緒に向き合いましょう」
扉を開けると、そこには柳の最新作の撮影現場が広がっていた。柳が台詞を間違え、NG を連発している。監督から提示された縁起プランに納得がいかず、軋轢が生まれていた。
「この時、僕は完全に自信を失ってしまった。もう二度と演技はできないんじゃないかって……」
凛は静かに柳を見つめた。
「柳さん、失敗は誰にでもあるわ。大切なのは、そこから学び、前に進むこと。あなたはまだ、成長の途中なのよ」
柳の目に、涙が浮かんだ。
「でも、もう取り返しがつかないほど……」
「違うわ。見て」
凛が指さす先には、柳を温かく見守るスタッフや共演者たちの姿があった。
「みんな、あなたの復帰を待っているのよ」
その言葉と共に、無限だった廊下が少しずつ形を変え始めた。扉が消え、代わりに大きな舞台が現れる。
「これが……本当の僕の心?」
「そう、あなたの中にある本当の姿勢。完璧を求めすぎるあまり、自分を縛っていただけなのよ」
柳の表情が、少しずつ明るくなっていく。
「ありがとうございます、先生。もう一度、挑戦してみます」
凛は優しく微笑んだ。
「きっとうまくいくわ。完璧を求めすぎると、かえって前に進めなくなることもあるの。大切なのは、一歩ずつ前を向いて歩むこと」
舞台に立つ柳の姿が、自信に満ちた輝きを取り戻していく。
凛はゆっくりと目を開けた。現実の診察室に戻ってきたのだ。柳もまた、静かに目を開けた。
「どうでしたか、柳さん?」
柳の顔に、久しぶりの穏やかな表情が浮かんだ。
「不思議な体験でした。でも……なんだか、希望が湧いてきました」
凛は満足げに頷いた。
「良かった。これからも一緒に頑張っていきましょう」
診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。その光は、まるで柳の新たな人生の幕開けを祝福しているかのようだった。
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