第9話:「裂けた桜」

 蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。春の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。首元で控えめに輝く一粒ダイヤのネックレスが、光を受けて小さな虹を作っていた。


 ノックの音が静寂を破る。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女は清潔感のあるナース服に身を包み、肩にかかる茶色のボブヘアをきちんとまとめ上げていた。


「おはようございます、凛先生」


「おはよう、紫苑。今日の患者さんの資料は?」


 紫苑はクリップボードを凛に手渡した。


「はい、中村さくらさん、30歳です。二重人格障害の疑いがあるとのことです」


 凛は資料に目を通しながら、眉をひそめた。


「なるほど……。普段は温厚で控えめだけど、時々攻撃的で自暴自棄になる……か」


「はい。最近は仕事も休みがちで、人間関係にも支障が出ているそうです」


 凛は深く息を吸い、紫苑の目を見つめた。


「わかったわ。この方の心の奥底にある問題にアプローチする必要がありそうね」


 凛は目を閉じてしばらく思いを巡らせた。


「さて、患者さんをお呼びしましょう」


 凛の言葉に、紫苑は「はい」と答え、部屋を出ていった。


 やがてドアが再び開き、紫苑が中村さくらを案内して入ってきた。


 さくらは、小柄でか細い体つきの女性だった。肩まで伸びた黒髪は少し乱れており、大きな瞳には不安の色が浮かんでいた。彼女は淡いピンクのブラウスとベージュのスカートという控えめな装いで、首元には小さな桜のペンダントが揺れていた。


「さくらさん、こちらが担当医の蒼井凛先生です」


 紫苑の紹介に、さくらは小さく頭を下げた。


「よ、よろしくお願いします」


 その声には、か細さと同時に、何かを抑え込もうとする緊張感が感じられた。


「こちらこそ。どうぞ、お掛けください」


 凛は穏やかな笑顔でさくらを診察台に案内した。


「それでは、私は退室いたします」


 紫苑が部屋を出ていくと、凛はさくらの正面に座った。


「さくらさん、今日はゆっくりお話を聞かせてください。そして、あなたの心の奥底にある問題を一緒に解決していきましょう」


 さくらは少し戸惑ったように凛を見つめた。


「先生……私、本当に治るんでしょうか? この……二つの私」


 凛は優しく微笑んだ。


「必ず方法はあります。これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」


 さくらは言われるままに目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。


 凛もまた目を閉じ、そっとさくらの手を取った。そして静かにさくらの心の中へと意識を沈めていった。周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。


 凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。


 なだらかな丘の上に、一本の巨大な桜の木が立っていた。しかし、その木は真っ二つに裂けており、片側は満開の桜、もう片側は枯れた枝だけの状態だった。風が吹くたびに、満開の側からは花びらが舞い、枯れた側からは枯れ葉がはらはらと落ちていく。


 凛は冷静に状況を分析した。


(この桜の木はさくらさん自身を表しているのね。満開の側は彼女の表の顔、温厚で優しい部分。枯れた側は彼女の隠された部分、攻撃的で自暴自棄な面)


 さらに観察を続けると、木の根元に小さな女の子が座っているのが見えた。凛は慎重に近づき、その子の様子を窺った。


(あの子はさくらさんの幼少期の姿かもしれない。トラウマの原因がそこにあるのでは?)


 凛はゆっくりと女の子に近づき、優しく声をかけた。


「こんにちは。一人でどうしたの?」


 女の子はびくりと体を震わせ、おずおずと顔を上げた。その瞳には涙が溜まっていた。


「あなたは……誰?」


「私は凛。あなたを助けに来たの」


 女の子は不思議そうに凛を見つめた。


「助けに……? でも、私をどうやって助けるの? お父さんとお母さんだって……」


 女の子の言葩が途切れ、再び涙があふれ出した。凛は優しく女の子の肩に手を置いた。


「お父さんとお母さんのこと、教えてくれる?」


 女の子はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で話し始めた。


「お母さんは優しいけど弱くて、お父さんは強いけど怖い。二人はいつも喧嘩してて……。私はどっちになればいいの? 強くなきゃいけないの? それとも優しくなきゃいけないの?」


 凛は女の子の言葉を聞きながら、さくらの二重人格の原因を理解していった。幼いさくらは、両親の対照的な性格の間で引き裂かれ、結果として二つの人格を形成してしまったのだ。


「そうだったのね……。でも、聞いて。強さと優しさは決して相反するものじゃないの。両方を兼ね備えることができるのよ」


 女の子は信じられないという表情で凛を見上げた。


「本当? でも、お父さんとお母さんは……」


「お父さんとお母さんは、それぞれ自分の一面しか見せていなかったのかもしれないわ。でも、あなたは違う。あなたの中には、強さも優しさも、両方あるの」


 凛は立ち上がり、女の子に手を差し伸べた。


「さあ、一緒に行きましょう。あなたの本当の姿を見つけに」


 女の子は恐る恐る凛の手を取り、一緒に裂けた桜の木に近づいていった。


「この木を見て。これがあなたなの」


 女の子は驚いた表情で木を見上げた。


「私? でも、こんなに裂けてて……」


「そう、今はまだ裂けているわ。でも、あなたならきっと一つにできる」


 凛は女の子の手を取り、一緩に木に触れた。



「さあ、目を閉じて。あなたの中にある強さと優しさ、両方を感じて」


 凛の優しくも力強い声に導かれ、小さな女の子は恐る恐る目を閉じた。その長いまつげが頬に影を落とし、小さな唇が緊張で僅かに震えている。凛は女の子の小さな手を包み込むように持ち、一緒に裂けた桜の木に触れた。


 最初は何も起こらなかった。しかし、女の子の眉間にしわが寄り、何かを必死に感じ取ろうとしているのが見て取れた。その瞬間、凛は木の幹に微かな震動を感じた。


 突如、驚くべき光景が広がり始めた。


 裂け目の両端から、かすかな光が放たれ始めたのだ。その光は、まるで生命の息吹のように、ゆっくりと、しかし確実に広がっていく。満開の桜の側からは柔らかなピンク色の光が、枯れた枝の側からは力強い深紅の光が溢れ出し、裂け目の中央で出会い、混ざり合っていく。


 光の交わるところで、驚くべき変化が起きていた。満開の花びらと枯れた枝が、まるで踊るように絡み合い、新たな枝を形作っていく。その枝には、ピンクと深紅が美しく調和した、今までに見たこともないような花が咲き始めた。


 凛は息を呑んだ。目の前で起こっている奇跡的な光景に、彼女自身も心を奪われていた。


 裂け目は徐々に小さくなっていき、やがて完全に塞がった。光は木全体に広がり、幹や枝、葉、花びらの一つ一つが、新たな生命力に満ちあふれていくのが感じられた。


 風が吹き、花びらが舞い始めた。それは満開の桜と枯れた枝が溶け合って生まれた、強さと優しさを兼ね備えた新しい花だった。その香りは甘く、しかし力強く、凛と女の子を包み込んだ。


「もう大丈夫よ。目を開けて」


 凛の声に導かれ、女の子はゆっくりと目を開いた。


 そこには、想像を超える美しさの桜の木が立っていた。幹は力強く、枝は優雅に伸び、無数の花が咲き誇っている。その花は、淡いピンクから深紅まで、様々な色合いを持ち、それぞれが調和して美しいグラデーションを作り出していた。


 木の周りには、光の粒子が舞っていた。それは、まるで木自体が喜びを表現しているかのようだった。


 女の子は大きな瞳を更に見開き、驚きと喜びに満ちた表情で木を見上げた。その目には涙が光り、小さな唇が感動に震えている。


「わあ……きれい」


 その一言には、単なる美しさへの感嘆だけでなく、自分自身の内なる調和を見出した喜びが込められていた。


 凛は温かな微笑みを浮かべながら、女の子の肩に手を置いた。二人の周りでは、新たに生まれた花びらが、希望に満ちた未来を祝福するかのように、優しく舞い降りていた。


「そう、これがあなたの本当の姿よ。強さと優しさが調和した、美しいあなた」


 女の子の姿が光に包まれ、大人のさくらへと変わっていく。さくらは涙を流しながら、凛に微笑みかけた。


「ありがとう、先生」


 その言葉とともに、世界が光に包まれ、凛の意識は現実へと戻っていった。


 凛はゆっくりと目を開けた。現実の診察室に戻ってきたのだ。さくらもまた、静かに目を開けた。


「どうでしたか、さくらさん?」


 さくらの顔に、穏やかな笑顔が浮かんだ。


「不思議な体験でした。でも……なんだか、自分が一つになれた気がします」


 凛は満足げに頷いた。


「良かった。さくらさん、覚えていてください。あなたの中にある二つの顔は、決して敵対するものではありません。それぞれが持つ強さと優しさを調和させることで、本当のあなたが花開くのです」


 さくらは深く頷き、その瞳には新たな決意の色が宿っていた。


 診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。外では、一輪の桜が風に乗って舞っていた。それは、さくらの新たな人生の始まりを祝福しているかのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る