第15話:「氷の仮面の下で」
蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の陽光が、彼女の白衣を柔らかく照らしている。首元でさりげなく輝く一粒ダイヤのネックレスが、朝の光を受けて煌めいていた。
凛は深呼吸をし、心を落ち着かせようとした。今日の患者は特に難しいケースになりそうだという予感が、彼女の心を重くしていた。
ノックの音が静寂を破った。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女はラベンダー色のナース服を身にまとい、耳元には小さなパールのピアスが揺れていた。
「おはようございます、凛先生。次の患者さんの資料です」
紫苑はクリップボードを凛に手渡した。
「ありがとう、紫苑」
凛は資料に目を通し始めた。その瞳に、次第に深い思慮の色が宿っていく。
「桜井麗子さん……35歳。IT企業の成功した女性起業家ね」
「はい。表面上は完璧に見えるのですが、妹さんが彼女の内に秘められた苦しみを感じ取って、強引に連れてきたそうです。本人は大変不本意そうでした」
紫苑の表情に、僅かな陰りが差す。
「なるほど。外見と内面のギャップが大きいケースになりそうね」
凛は資料から顔を上げ、紫苑と視線を合わせた。
「紫苑、この患者さんにはどんなアプローチが有効だと思う?」
紫苑は少し考え込んだ後、静かに口を開いた。
「表面的な成功や完璧さの裏に隠れた本当の感情を引き出すことが重要だと思います。特に、希死念慮があるとすれば、その根源にあるものを探る必要があるでしょう」
凛は紫苑の意見に頷きながら、さらに深く考え込んだ。
「そうね。彼女の内面に潜む闇と向き合う必要がありそう。私の……特殊な方法で、彼女の心の奥底にあるものを探ってみるわ」
二人は互いに頷き合い、これから始まる治療への覚悟を決めた。
しばらくして、ノックの音が再び響いた。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、ドアが開いた。
そこには、まるでファッション雑誌から抜け出てきたかのような美しい女性と、彼女の腕を掴んで引っ張るようにして連れてきたもう一人の若い女性が立っていた。
桜井麗子は、スリムなシルエットのシャネルのツイードスーツに身を包み、首元にはティファニーのネックレスが控えめに輝いていた。完璧に整えられたメイクと、艶やかな黒髪が、彼女の凛とした美しさを引き立てている。一方の妹、紗季は、カジュアルなワンピースに身を包み、髪をポニーテールに結んでいた。
「桜井麗子さん、桜井紗季さんですね。私が担当医の蒼井凛です」
凛は穏やかな笑顔で二人を迎えた。
「お世話になります」
麗子の声は冷静で、どこか距離のある響きがあった。一方で紗季は、明らかに焦りの色を浮かべている。
「姉を助けてください! 姉は……姉は……」
紗季の声が震える。麗子は軽くため息をつき、妹の方を向いた。
「紗季、私は大丈夫だと言っているでしょう。あなたが心配しすぎなのよ」
その言葉とは裏腹に、麗子の目には何か深い影が潜んでいるように凛には見えた。
「ではまず、麗子さんとお話しさせていただきます。紗季さんは少し外でお待ちいただけますか?」
紗季は躊躇したが、凛の穏やかながらも毅然とした態度に、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。姉を、お願いします……」
紗季が部屋を出ると、凛は麗子をソファに案内した。紫苑は静かに部屋の隅へ下がり、準備を始めた。
「麗子さん、率直にお聞きします。あなたの中に、生きることへの強い苦痛はありますか?」
麗子は一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに取り繕った。
「そんなことはありません。私は成功者です。苦痛を感じる理由などありません」
しかし、その言葉とは裏腹に、麗子の手が僅かに震えているのを凛は見逃さなかった。
「麗子さん、これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中してください」
麗子は一瞬ためらったが、やがて言われるままに目を閉じた。その長いまつげが、頬に影を落としている。
凛は静かに麗子の手を取った。その瞬間、彼女の意識は麗子の心の中へと沈んでいった。
周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。
凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。
果てしなく続く氷の荒野。その中心に、巨大な氷の十字架が
凛は凍てつく風に身を震わせながら、状況を分析し始めた。
(この氷の荒野は、麗子さんの心の冷たさを表しているのね。外界に対する防御なのかもしれない。そして、あの十字架は……自己犠牲? それとも自罰的な気持ちのあらわれ?)
凛は慎重に十字架に近づいた。近づくにつれ、麗子の苦しそうな表情がはっきりと見えてきた。
「麗子さん」
凛が声をかけると、麗子はゆっくりと目を開いた。その瞳には、深い絶望の色が宿っていた。
「どうして……どうしてここに……」
麗子の声は、か細く震えていた。
「あなたを助けに来たのよ、麗子さん」
凛の言葉に、麗子の表情が歪んだ。
「助ける? そんなこと……もう誰にもできない……」
麗子はうつむき、呟いた。
「もういやだ……」
突然、麗子が激しく体を揺すり始めた。
「死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいー!」
その絶叫は、氷の荒野全体に響き渡り、凛の心を震撼させた。
「死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいー!」
黒い炎がさらに激しく燃え上がり、麗子の体を包み込んでいく。
「殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してー!」
凛は動揺を抑えつつ、冷静に状況を観察した。
(この黒い炎は、麗子さんの抑圧された感情や希死念慮を表しているのね。長年抑え込んできたものが、一気に噴出しているのかもしれない)
凛は勇気を振り絞り、炎に手を伸ばした。不思議なことに、その炎は凛を焼かなかった。代わりに、麗子の記憶の断片が凛の心に流れ込んできた。
幼少期の厳しいしつけ。
常に完璧を求められる学生時代。
起業の苦労と成功の裏にある孤独。
そして、自分の弱さを誰にも見せられない恐怖。
凛は深く息を吸い、麗子に語りかけた。
「麗子さん、あなたはずっと一人で頑張ってきたのね。でも、もう大丈夫よ。あなたは一人じゃない」
麗子の叫びが止み、彼女は困惑したように凛を見つめた。
「でも、私は……私は弱くなんかない。弱くあってはいけないの」
「強さとは、弱さを認められることでもあるのよ。あなたの中にある痛みや恐れ、それらもあなたの一部なの」
凛の言葉に、麗子の目に涙が浮かんだ。
「でも、私が弱さを見せたら、誰も私についてこないわ。私は一人になってしまう……」
「違うわ。本当の強さを持つ人は、他人の弱さも受け入れられる。あなたが本当の自分を見せれば、きっと多くの人があなたを支えてくれるはず」
凛の言葉が、麗子の心に染み込んでいく。氷の十字架が少しずつ溶け始め、黒い炎も徐々に静まっていった。
「私は……私は……」
麗子の声が震える。
「そう、話してみて。あなたの本当の気持ちを」
麗子の口から、長年封印していた言葉が溢れ出す。
「私は……怖いの。失敗するのが怖い。一人になるのが怖い。でも、何よりも……そんな自分自身が怖い」
その言葉と共に、氷の十字架が完全に溶け、麗子はゆっくりと地面に降り立った。黒い炎は消え、代わりに温かな光が彼女を包み込む。
凛は優しく麗子を抱きしめた。
「よく言ってくれたわ。これが本当のあなた。完璧じゃなくていい。弱さがあってもいい。それもすべて、あなたなのよ」
麗子の体から力が抜け、彼女は凛の腕の中で泣き崩れた。その涙と共に、氷の荒野が溶けていき、代わりに柔らかな草原が広がっていく。
やがて、麗子は顔を上げ、凛を見つめた。その目には、今まで見たことのない柔らかさが宿っていた。
「ありがとう……。私、ありのままに、生きていてもいいのね」
「ええ、もちろんよ。そして、助けを求めることも、弱さを見せることも、全て大切なことなの」
凛の言葉に、麗子は小さく、しかし確かに頷いた。
その瞬間、凛の意識が現実世界へと戻っていった。
目を開けると、診察室の光景が広がっていた。麗子もまた、ゆっくりと目を開けた。
「どうでしたか、麗子さん?」
麗子の顔に、今まで見たことのないような、柔らかな表情が浮かんだ。
刹那、その頬にひとすじの涙が流れた。
「不思議な体験でした。でも……何だか、長年背負っていた重荷から解放されたような気がします」
凛は満足げに頷いた。
「良かった。これからは、自分の弱さも含めて、ありのままの自分を受け入れていってください」
麗子は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。私……これからは少しずつ、本当の自分と向き合っていきます」
診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。凛は自身も何か大切なことを学んだような気がしていた。
麗子が退室した後、紫苑が凛に近づいてきた。
「凛先生、大丈夫でしたか? 私、今回は何度先生を止めようと思ったか……」
凛は紫苑に向かって安堵の笑みを浮かべた。
「心配かけてごめんなさい、紫苑。そうね、確かに難しいケースだったわ。でも、麗子さんの中にある生きる力が、最後には彼女を救ったのよ」
「そうですか。本当に良かったです」
紫苑の表情にも、安堵の色が広がった。
凛は窓の外を見やりながら、静かに言った。
「私たちの内なる炎は、時に危険なものに見えるかもしれないわ。でも、それを消し去るのではなく、上手く扱うことで、私たちを温め、照らす光となるの。麗子さんの場合、その炎は彼女の情熱や生きる力の源でもあったのよ」
紫苑は凛の言葉に深く頷いた。
「そうですね。でも、凛先生。時々、あなたも自分の炎と向き合う時間が必要なのではないですか?」
凛は少し驚いたように紫苑を見つめた。
「どういう意味?」
「凛先生は、いつも患者さんのために全力を尽くしています。でも、そのせいで自分自身を追い詰めてしまっているように見えることもあるんです」
凛は一瞬言葉を失った。紫苑の洞察力の鋭さに、彼女は改めて驚かされた。
「そうね……。確かに、私も時々立ち止まって自分と向き合う必要があるかもしれない」
凛は深いため息をつき、肩の力を抜いた。
「ありがとう、紫苑。あなたがいてくれて本当に心強いわ」
紫苑は優しく微笑んだ。
「私たちはチームですから。凛先生を支えることも、私の大切な仕事です」
二人は穏やかな沈黙の中、窓の外に広がる世界を見つめた。そこには、無限の可能性を秘めた人生という名の草原が、まるで目の前に広がっているかのようだった。
凛は静かに呟いた。
「私たち一人一人の中に、氷の仮面があるのかもしれない。でも、その下にある炎を恐れずに受け入れることで、初めて本当の自分と向き合えるのね」
紫苑はその言葉に深く頷き、二人は次の患者を迎える準備を始めた。診察室には、新たな希望の光が満ちていた。
その時、突然ドアがノックされた。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、桜井紗季が部屋に入ってきた。彼女の目は真っ赤に腫れていたが、表情には安堵の色が浮かんでいた。
「先生、本当にありがとうございました。あんなに穏やかな姉の姿を見たのは初めてです」
紗季は深々と頭を下げた。凛は優しく微笑んだ。
「紗季さん、お姉さんを心配して連れてきてくれて、本当によかったわ」
紗季の目に、涙が浮かんだ。
「姉は……姉は救われましたか?」
「ええ、大きな一歩を踏み出しましたよ。そして、それはあなたの勇気のおかげでもあるのよ」
凛の言葉に、紗季は驚いたように顔を上げた。
「私の……?」
「そう。あなたが姉の苦しみに気づき、強引にでも助けを求めようとした。その愛と勇気が、麗子さんを救う第一歩だったの」
紫苑も優しく頷いた。
「家族だからこそ見える苦しみがあります。紗季さんの行動は、本当に素晴らしかったと思います」
紗季の頬を再び涙が伝った。
「でも、私……姉を怒らせてしまって……」
「時には、愛する人を怒らせてでも、その人を救わなければならないことがあるのよ」
凛は紗季の肩に手を置いた。
「あなたの行動は、決して間違っていなかった。むしろ、真の愛とは何かを教えてくれたわ」
紗季は涙ながらに微笑んだ。
「ありがとうございます。これからは、もっと姉と向き合っていきます」
凛は満足げに頷いた。
「そうね。そして、あなた自身のケアも忘れないでね。愛する人を支えることは、時に大きな負担になることもあるから」
紗季は深く頷き、感謝の言葉を述べて部屋を出ていった。
部屋に残された凛と紫苑は、しばらくの間沈黙していた。
やがて凛が静かに口を開いた。
「愛とは、時に氷の仮面を砕く勇気を持つことなのかもしれないわね。紗季さんの行動が、私たちに大切なことを教えてくれたわ」
紫苑は深く同意を示すように頷いた。二人の目には、新たな理解の光が宿っていた。
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