第16話:「心の迷宮、絆の謎」
蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の白衣をほのかに照らしている。首元でさりげなく輝くカルティエの一粒ダイヤモンドネックレスが、朝の光を受けて煌めいていた。
凛は深いため息をつき、眉間にしわを寄せた。ここ最近、彼女の心を悩ませる謎があった。それは、なぜ自分が親友である美園紫苑の心だけを読むことができないのか、という問題だった。
凛は慎重に頭の中で仮説を立て始めた。
(まず、私と紫苑の強い絆が原因かもしれない……)
凛は紫苑との長年の友情を思い返した。二人で過ごした数え切れない時間、互いを支え合った瞬間瞬間。その深い絆が、無意識のうちに紫苑の心を読むことを妨げているのかもしれない。
(それとも、私の能力に何か制限があるのだろうか?)
凛は自身の能力について考えを巡らせた。これまで出会った全ての人の心を読むことができたが、もしかしたら特定の条件下では機能しない可能性もある。紫苑がその条件に該当しているのかもしれない。
(あるいは……私の能力の起源が紫苑と関係しているのかも……)
この考えは凛の心に強く響いた。もし自分の能力が紫苑と何らかの形で結びついているとしたら、それは紫苑が特別な存在であることを意味する。しかし、そうだとすれば、なぜ紫苑の心だけが読めないのか? 凛は頭を抱えた。
突然、凛の脳裏に別の可能性が浮かんだ。
(……接触の深さによって、私が読み取れる心象風景の精密さは変わる……ならば紫苑ともっと深い接触をすれば心を読めるのかもしれない……)
凛は自身の能力の特性を思い返した。確かに、相手との接触が深いほど、より詳細な心象風景を読み取ることができる。握手よりもハグ、ハグよりもキス……そしてキスよりも……。
そこで凛の思考が止まった。顔が熱くなるのを感じる。
(まさか……紫苑と……そんな……できるわけないじゃない……)
凛は慌てて首を振った。そんなことは考えられない。紫苑は大切な友人だ。それ以上の関係を求めるなんて……。
しかし、凛の心の奥底では、同時にある記憶が蘇っていた。
それは高校時代の忘れらない思い出。そしてトラウマ。
凛の中で記憶のフィルムロールが回り始めた。
◆
春の柔らかな陽射しが降り注ぐ土曜日の午後。
高校生だった凛は初めての彼氏、古藤健太との初めてのデートに出かけていた。淡いピンクのワンピースに身を包み、首元にはさりげなくティファニーのオープンハートネックレスを下げている。緊張と期待が入り混じる胸の高鳴りを感じながら、凛は健太の姿を待っていた。
待ち合わせ場所に現れた健太は、爽やかな笑顔で凛に手を差し伸べた。
「待たせてごめん、凛」
凛は照れくさそうに健太の手を取る。
その瞬間、彼の気持ちが凛に伝わってきた。
温かな好意、そして驚くばかりの緊張、初々しさ。
それは凛の能力が成せる技だった。
ダイレクトに彼氏の好意を感じられる……凛は幸せな気持ちに包まれた。
二人は映画を見て、ショッピングを楽しんだ。健太の手を握りしめながら歩く凛の心は、幸福感で満たされていた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。
夕暮れ時、人気のない公園のベンチで二人は腰を下ろした。健太が凛の方を向き、真剣な表情で言った。
「凛、好きだ」
そう言って、健太は凛の顔に手を添え、唇を近づけてきた。凛は目を閉じ、初めてのキスに身を委ねた。
しかし、唇が触れ合った瞬間、凛の世界が一変した。
これまで経験したことのない激しい感情の奔流が、凛の心に怒濤のごとく押し寄せてきた。
健太の激しい愛、感情、欲望、不安、そして歪んだ自己愛すらも……。
それらが生々しい形で一気に凛の意識の中に流れ込んでくる。
映像、音、匂い、触感。あまりにも鮮明で濃密な情報の洪水に、凛の脳が悲鳴を上げた。
「うっ……」
凛は反射的に健太を押しのけ、その場にうずくまった。激しい吐き気が込み上げてくる。
「凛!? どうした!? 大丈夫か?」
健太の声が遠くから聞こえる。
しかし凛には応える余裕がなかった。
次の瞬間、凛は草むらに向かって激しく嘔吐した。
ファーストキスの余韻も冷めやらぬうちのゲロ……。
初デートは最悪な結末を迎えた。
凛は自分の能力の恐ろしさを思い知ることとなった。
健太の困惑した表情、周囲の空気の変化、全てが当時の凛にとっては耐え難いものだった。
その日を境に、凛と健太の関係は終わりを告げた。
凛は人との親密な関係を恐れるようになり、自分の能力を呪った。
記憶の中の凛は、いつも公園のベンチに一人佇んでいた。
夕陽に染まる空を見上げながら、彼女は静かに涙を流していた。
現在の凛は、その記憶に苦笑を浮かべた。
(あの頃は、自分の能力をコントロールする方法も分からなかった。でも今は違う。あの経験があったからこそ、今の私がある)
◆
なぜ紫苑の心だけが読めないのか……。
いくら考えてもやはり結論が出ない。
「……このことはまた別の機会に考えましょう……」
凛はそう呟き、次の患者のカルテを開いた。しかし、その手は少し震えていた。
凛は深呼吸をし、気持ちを落ち着かせようとした。シャネルのリップを取り出し、鏡を見ながら軽く唇を整える。その仕草には、自分を取り戻そうとする意志が感じられた。
その時、ノックの音が静かに響いた。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女はラベンダー色のナース服を身にまとい、首元にはパールのペンダントが優雅に揺れていた。
「おはようございます、凛先生。次の患者さんの準備ができました」
紫苑の声は、いつもと変わらず穏やかだった。しかし凛の目には、その声が異質に響いた。
「ありがとう、紫苑」
凛は微笑みを浮かべようとしたが、どこか不自然な表情になってしまった。紫苑はそんな凛の様子を見逃さなかった。
「凛先生、何か悩み事でもあるんですか? 最近、少し様子が違うように見えます」
紫苑の眼差しには、純粋な心配の色が浮かんでいた。凛はその眼差しに、一瞬たじろいだ。
(紫苑の心が読めないからこそ、こんなにも素直に彼女の気持ちを受け取れるのかもしれない……)
その思いが、凛の胸に温かく広がった。
「ありがとう、紫苑。少し考え事があっただけよ。気にしないで」
凛は優しく微笑んだ。その笑顔には、紫苑への感謝の気持ちが滲んでいた。
「そうですか。でも、何か辛いことがあったら、いつでも相談してくださいね」
紫苑の言葉に、凛は軽く頷いた。
「ええ、もちろんよ。あなたがいてくれて、本当に心強いわ」
二人の間に、温かな空気が流れた。凛は改めて、紫苑との絆の大切さを実感した。
(たとえ紫苑の心が読めなくても、こうして互いを思いやり、支え合える。それこそが本当の絆なのかもしれない)
凛はそう考えながら、次の患者を迎える準備を始めた。紫苑もまた、凛を支えるように傍らに立った。
診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。それは、凛と紫苑の絆を祝福しているかのようだった。
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