第17話:「消えた自我の影」


 蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の陽光が、彼女の白衣を柔らかく照らしている。首元でさりげなく輝く一粒ダイヤのネックレスが、朝の光を受けて煌めいていた。


 ノックの音が静寂を破った。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女はミントグリーンのナース服を身にまとい、耳元には小さなシルバーのフープピアスが揺れていた。


「おはようございます、凛先生。次の患者さんの資料です」


 紫苑はクリップボードを凛に手渡した。


「ありがとう、紫苑」


 凛は資料に目を通し始めた。その瞳に、次第に深い思慮の色が宿っていく。


「小鳥遊真琴さん……28歳。無気力で自分の存在価値を見出せない状態か」


「はい。仕事も私生活も上手くいっていないようで、自殺願望まではないものの、生きている意味を見失っているそうです」


 紫苑の表情に、僅かな陰りが差す。


「なるほど。現代社会特有の問題ね。自己喪失というか、アイデンティティクライシスとでも言えそうね」


 凛は資料から顔を上げ、紫苑と視線を合わせた。


「紫苑、この患者さんにはどんなアプローチが有効だと思う?」


 紫苑は少し考え込んだ後、静かに口を開いた。


「自己肯定感を高めることが重要だと思います。過去の成功体験を思い出させたり、他者との繋がりの中での自分の役割を再認識させたりすることで、存在価値を見出せるかもしれません」


 凛は紫苑の意見に頷きながら、さらに深く考え込んだ。


「そうね。自分自身を客観視する機会も必要かもしれない。彼女の心の奥底にあるものを探ってみるわ」


「それがいいと思います」


 二人は互いに頷き合い、これから始まる治療への覚悟を決めた。


 しばらくして、ノックの音が再び響いた。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、ドアが開いた。


 そこには、どこか影の薄い印象の若い女性が立っていた。小鳥遊真琴は、パステルブルーのワンピースを身にまとい、首元には小さな水晶のペンダントが揺れていた。しかし、その装いとは裏腹に、彼女の表情には生気が感じられなかった。


「小鳥遊真琴さんですね。私が担当医の蒼井凛です」


 凛は穏やかな笑顔で真琴を迎えた。


「はい……よろしくお願いします」


 真琴の声は、か細く、どこか遠くから聞こえてくるようだった。


「こちらへどうぞ」


 凛は真琴をソファに案内した。紫苑は静かに部屋の隅へ下がり、準備を始めた。


「真琴さん、率直にお聞きします。今のあなたにとって、生きることはどんな意味を持っていますか?」


 真琴は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。


「正直……分かりません。毎日が空虚で、自分が本当に生きているのかさえ、時々疑問に思います」


 その言葉には、深い虚無感が滲んでいた。


「そうですか。では、これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中してくださいね」


 真琴は言われるままに目を閉じた。その長いまつげが、頬に影を落としている。


 凛は静かに真琴の手を取った。その瞬間、彼女の意識は真琴の心の中へと沈んでいった。


 周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。


 凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。


 果てしなく続く、霧に包まれた無人の街。建物の輪郭はかろうじて見えるものの、すべてがぼんやりとしていて、色彩も乏しい。人影はまったく見当たらず、静寂が支配していた。


 凛は周囲を見回し、状況を分析し始めた。


(この霧は、真琴さんの曖昧な自己認識を表しているのかもしれない。街に人がいないのは、自分の存在を認識できていないことの表れ?)


 凛は慎重に歩を進め、真琴の姿を探し始めた。しかし、どこを探しても彼女の姿は見当たらない。


「真琴さん! どこにいるの?」


 凛の声は霧に吸い込まれ、かすかにこだまするだけだった。


 凛は立ち止まり、より深く考え始めた。


(患者さん本人がいない……これは今までにない状況ね。でも、ここが確かに真琴さんの心の中だとしたら……)


 凛は霧に手を伸ばした。すると、霧の中に真琴の記憶の断片が浮かび上がった。学生時代の孤独な姿、職場でのストレス、友人との疎遠になっていく様子。それらの映像が霧の中で揺らめいては消えていく。


(まるで、真琴さんの存在そのものが霧になってしまったかのよう。自分自身を完全に見失っているのかもしれない)


 凛は深く息を吸い、決意を固めた。


「真琴さん、聞こえますか? あなたはここにいるはずよ。自分の存在を信じて」


 凛の声が霧の中に響き渡る。すると、わずかに霧が揺れ動いた。


「そう、その調子よ。あなたは確かに存在しているの。思い出して。学生時代、あなたが友達を助けた時のこと。職場で難しい仕事を成し遂げた時の達成感。家族と過ごした温かな時間」


 凛の言葉に導かれるように、霧の中に色彩が少しずつ戻り始めた。建物の輪郭がはっきりし、街に活気が戻っていく。


「あなたは大切な存在なの、真琴さん。あなたがいることで、誰かが助けられ、誰かが笑顔になれる。そのことを忘れないで」


 霧が晴れるにつれ、街に人々の姿が現れ始めた。そして、ついに霧の中心から、おぼろげながら真琴の姿が浮かび上がってきた。


「先生……私、ここにいたんですね」


 真琴の声は、まだか細いものの、確かに存在感を持っていた。


「ええ、そうよ。あなたはずっとここにいたの。ただ、自分自身を見失っていただけ」


 凛は優しく真琴の手を取った。


「これからは、自分の存在を信じて。あなたは確かにここにいて、大切な人なのよ」


 真琴の目に、小さな光が宿り始めた。彼女の姿が、徐々にはっきりとしてくる。


「ありがとうございます、先生。私……生きていていいんですね」


「もちろんよ。あなたの人生には、まだたくさんの可能性が広がっているわ」


 凛の言葉に、真琴は小さく、しかし確かに頷いた。


 その瞬間、凛の意識が現実世界へと戻っていった。


 目を開けると、診察室の光景が広がっていた。真琴もまた、ゆっくりと目を開けた。


「どうでしたか、真琴さん?」


 真琴の顔に、今まで見たことのないような、生気のある表情が浮かんだ。


「不思議な体験でした。でも……何だか、自分自身を取り戻せたような気がします」


 凛は満足げに頷いた。


「良かった。これからは、自分の存在価値を信じて、一歩ずつ前に進んでいってください」


 真琴は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、先生。私……これからは自分と向き合い、生きる意味を見つけていきます」


 診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。凛は自身も何か大切なことを学んだような気がしていた。


 真琴が退室した後、紫苑が凛に近づいてきた。


「凛先生、大丈夫でしたか? 真琴さんの様子が、目に見えて変わりましたね」


 凛は紫苑に向かって安堵の笑みを浮かべた。


「ええ、大丈夫よ。確かに難しいケースだったわ。でも、真琴さんの中にある生きる力が、最後には彼女を救ったのよ」


「そうですか。本当に良かったです」


 紫苑の表情にも、安堵の色が広がった。


 凛は窓の外を見やりながら、静かに言った。


「私たちは時に、自分自身を見失うことがあるわ。でも、自分は確かにここにいると信じることが、霧を晴らす第一歩なのよ。そして、その一歩を踏み出す勇気さえあれば、誰でも自分自身を取り戻すことができるの」


 紫苑は凛の言葉に深く頷いた。二人の目には、新たな理解の光が宿っていた。外の世界は、今まで以上に鮮やかに輝いて見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る