第3話:「時の砂」
蒼井凛の診察室は、朝日が差し込む柔らかな光に包まれていた。凛は窓際に立ち、外の景色を眺めながら、これから始まる治療のことを考えていた。彼女の白衣は朝の光を受けて輝き、首元の一粒ダイヤのネックレスが小さな虹を作っている。
ノックの音が静寂を破った。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。紫苑は清潔感のあるナース服に身を包み、髪をきちんとまとめ上げていた。その姿は、プロフェッショナルそのものだった。
「おはようございます、凛先生」
「おはよう、紫苑。今日の患者さんの資料は?」
紫苑はクリップボードを凛に手渡した。
「はい、山田誠さん、45歳の会社員です。5年前の交通事故で奥様を亡くされて以来、うつ病とアルコール依存症を患っています」
凛は資料に目を通しながら、眉をひそめた。
「なるほど……喪失感からの逃避か」
「はい。最近は仕事も休みがちで、このままでは失職の危険もあるそうです」
凛は深く息を吸い、紫苑の目を見つめた。
「わかったわ。この方の心の奥底にある問題にアプローチする必要がありそうね」
紫苑は少し躊躇いながら口を開いた。
「それにしても、凛先生、私はいつもながら不思議に思うんです。先生の催眠療法は、他の医師の何倍も効果的で……」
凛は微笑みながら紫苑の言葉を遮った。
「紫苑、それは単に経験の差よ。それに、患者さんの心に寄り添う気持ちがあれば、自然とよい結果につながるものよ」
紫苑は納得したように頷いたが、その瞳には僅かな疑問の色が残っていた。
「さて、患者さんをお呼びしましょう」
凛の言葉に、紫苑は「はい」と答え、部屋を出ていった。
しばらくして、ドアが再び開き、紫苑が山田誠を案内して入ってきた。
山田誠は、かつては端正な顔立ちだったであろう面影を残しつつも、疲れと重度の飲酒癖のせいか少し膨れた顔をしていた。グレーのスーツは高級そうだが、少しシワが目立つ。
「山田さん、こちらが担当医の蒼井凛先生です」
紫苑の紹介に、山田は小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
その声には、力がなかった。
「こちらこそ。どうぞ、お掛けください」
凛は穏やかな笑顔で山田を診察台に案内した。
「それでは、私は退室いたします」
紫苑が部屋を出ていくと、凛は山田の正面に座った。
「山田さん、今日はゆっくりお話を聞かせてください。そして、あなたの心の奥底にある問題を一緒に解決していきましょう」
山田は少し戸惑ったように凛を見つめた。
「先生……私の心なんて、もうボロボロです。治る見込みなんてありません」
凛は優しく微笑んだ。
「必ず方法はあります。これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」
山田は言われるままに目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。
凛もまた目を閉じ、山田の手を取った。そして静かに山田の心の中へと意識を沈めていった。周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。
凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。
果てしなく広がる砂漠の中央に、巨大な砂時計が立っていた。その高さは優に10メートルはあろうかという大きさだ。砂時計の上部には、鮮やかな色彩の砂が詰まっていた。それは山田の幸せな思い出を表しているようだった。
下部には、灰色の砂が溜まっている。その中に、山田の姿が見えた。彼は膝を抱えて座り、虚ろな目で上を見上げていた。
(この砂時計は、山田さんの時間感覚を表しているのね。上部の幸せな思い出が、砂と共に失われていく……でも、この砂を別の形で活用できれば……)
凛は静かに山田に近づいた。
「山田さん、聞こえますか? 私です、蒼井凛です」
山田はゆっくりと顔を上げ、凛を見つめた。その瞳には、深い絶望と諦めが宿っていた。
「先生……ここは……?」
「ここはあなたの心の中よ、山田さん。この砂時計は、あなたの人生を表しているの」
山田は周囲を見回し、苦笑いを浮かべた。
「そうか……まさに、時間が過ぎていくだけの人生だ」
凛は優しく微笑んだ。
「でも、見てください。上の部分にはまだたくさんの色鮮やかな砂がありますよ」
山田は上を見上げたが、すぐに目を逸らした。
「あれは……妻との思い出だ。でも、もう二度と戻らない」
その言葉と共に、上部から色鮮やかな砂が落ちてきた。それは美しい色彩を放ちながら、下部の灰色の砂に埋もれていく。
「山田さん、その砂をただ眺めているだけでいいのでしょうか?」
凛の問いかけに、山田は困惑したように凛を見つめた。
「どういう意味ですか?」
「その砂で、何か作ることはできないでしょうか?」
凛はそう言いながら、灰色の砂の中から色とりどりの砂を掬い上げた。
「さあ、一緒にやってみましょう」
山田は、震える両手で砂を掬い上げた。その動作には、まるで失われた宝物を探すような切実さがあった。凛は静かに、しかし確かな存在感を持って山田の隣に座り、彼の動きを見守っていた。
二人の指が砂の中を進むにつれ、色とりどりの砂粒が光を放ち始めた。それは、まるで星屑のように美しく、かつ儚い輝きだった。山田の指先が触れるたびに、砂粒は小さな音を立てて震えた。その音は、忘れかけていた記憶の欠片が目覚めるような、不思議な響きだった。
凛は、山田の動きに合わせるように、慎重に砂を整えていく。彼女の指先が描く軌跡は、まるで見えない糸で過去と現在を紡ぐかのようだった。
時が経つのも忘れるほど、二人は没頭して作業を続けた。やがて、砂の中から一つの形が浮かび上がり始めた。最初はぼんやりとしていたそれが、徐々にはっきりとした輪郭を帯びていく。
そして、ついにその全容が現れた。
そこに描かれていたのは、山田と妻が寄り添う姿だった。二人は満面の笑みを浮かべ、まるで世界中の幸せを独占しているかのような表情をしている。山田の腕は優しく妻の肩を抱き、妻は頬を山田の胸に寄せていた。その姿は、まるで永遠に続く幸せを約束しているかのようだった。
砂で描かれた絵なのに、不思議なほど生き生きとしていた。風に揺れる妻の髪、山田のシャツのしわ、二人の指が絡み合う様子まで、細部まで鮮明に表現されている。そして何より、二人の目に宿る愛情の輝きが、見る者の心を打つ。
「これは……」
山田の声が、かすかに震えながら静寂を破った。その声には、驚きと懐かしさ、そして深い感動が混ざっていた。彼の目は、まるでこの世のものとは思えないほど貴重な宝物を見つけたかのように、絵に釘付けになっていた。
凛は静かに、しかし確かな声で語りかけた。
「ええ、あなたの大切な思い出です。見てください、山田さん。思い出は失われてはいないのよ。形を変えて、今もあなたの中に生き続けているの」
その言葉は、まるで魔法のように山田の心に染み込んでいった。彼の目に、大粒の涙が浮かび上がる。その涙は、長い間閉ざされていた感情の堰を切るように、頬を伝って落ちていった。
山田は、震える手で砂絵に触れようとした。しかし、それが壊れてしまうのを恐れるかのように、寸前で手を止めた。
「妻は……妻はもういないけど、確かにここにいる」
その言葉と共に、山田の顔に笑みが浮かんだ。それは5年ぶりの、心からの笑顔だった。涙に濡れたその表情は、悲しみと喜び、後悔と希望が入り混じった、複雑なものだった。
不思議なことに、山田のその言葉と共に、砂絵が淡く光り始めた。それは、まるで描かれた二人が息を吹き返したかのようだった。砂粒一つ一つが、記憶と感情を宿した生き物のように、かすかに震えている。
凛は静かに山田の肩に手を置いた。その温もりが、山田に現実感を取り戻させる。
「山田さん、この思い出は、あなたの中でずっと生き続けていたのです。そして、これからもそうあり続けるでしょう。大切なのは、この思い出とともに、前を向いて歩んでいくこと」
山田は、ゆっくりと顔を上げて凛を見た。その目には、まだ涙が光っていたが、同時に新たな決意の色も宿っていた。
「はい……妻との思い出を胸に、これからは前を向いて生きていきます」
その言葉と共に、砂絵はさらに強く輝きを増した。その光は、まるで山田の新たな人生の幕開けを祝福しているかのようだった。
凛と山田は、しばらくの間、その美しい光景を見つめ続けた。それは、失われた過去と、これから始まる未来が、一瞬だけ交差した奇跡の瞬間だった。
山田の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「妻は……妻はもういないけど、確かにここにいる」
彼の言葉と共に、砂絵が輝きを増した。そして、砂時計にヒビが入り始めた。
「山田さん、あなたの中にある力が、この砂時計を壊そうとしています。さあ、最後の一押しです」
凛に促されるように、山田は立ち上がった。彼は深く息を吸い、砂時計に向かって叫んだ。
「もう、過去に縛られない! 妻との思い出を大切にしながら、前を向いて生きる!」
その瞬間、砂時計は大きな音を立てて砕け散った。砂嵐が二人を包み込む。
やがて砂嵐が収まると、そこには広大な砂浜が広がっていた。波打ち際には、山田と妻が歩いた足跡が残っている。
「これが、私の新しい人生の始まり……なんですね」
山田の声には、新たな希望が感じられた。
凛は静かに頷いた。
「そうよ、山田さん。失われたものを取り戻すことはできないけど、その思い出は新しい形で生き続けることができるの」
山田は凛に向き直り、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。私……もう一度、人生をやり直してみます」
凛は優しく微笑んだ。
「きっとうまくいきますよ。さあ、新しい一歩を踏み出しましょう」
二人の周りに、希望に満ちた光が広がっていった。
凛はゆっくりと目を開けた。現実の診察室に戻ってきたのだ。山田もまた、静かに目を開けた。
「どうでしたか、山田さん?」
山田の顔に、久しぶりの穏やかな表情が浮かんだ。
「不思議な体験でした。でも……なんだか、希望が湧いてきました」
凛は満足げに頷いた。
「良かった。これからも一緩に頑張っていきましょう」
診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。その光は、まるで山田の新たな人生の始まりを祝福しているかのようだった。
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