第4話:「虚無の向こう側」

 蒼井凛の診察室には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。凛は窓際に立ち、外の景色を眺めながら、これから始まる診療の準備をしていた。彼女の白衣は清潔感があり、首元にはいつもの一粒ダイヤのネックレスが控えめに輝いている。


 静寂を破るように、ノックの音が響いた。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。紫苑はいつもの明るい笑顔ではなく、少し緊張した表情を浮かべていた。


「おはようございます、凛先生」


「おはよう、紫苑。今日の患者さんの資料は?」


 紫苑はクリップボードを凛に手渡しながら、少し躊躇うように口を開いた。


「はい、ここに……。それで、凛先生。実は、今日の患者さんは訳ありなんです」


 凛は紫苑の言葉に、眉をひそめた。


「どういうこと?」


「患者さんは、佐藤美沙ちゃん。15歳の中学生です。彼女は……」


 紫苑は言葉を選ぶように一瞬躊躇った。


「彼女は、2ヶ月前から学校に行けなくなり、それ以来、ほとんど言葉を発しなくなったそうです。両親も先生方も、原因がまったくわからないと」


 凛は資料に目を通しながら、深く考え込んだ。


「なるほど……。何か大きなショックを受けたのかもしれないわね」


「はい。でも、両親によると特に大きな出来事はなかったそうです。ただ、ある日突然、彼女が変わってしまったと……」


 凛は静かに頷いた。


「わかったわ。慎重に対応する必要がありそうね」


 紫苑は少し心配そうな表情で凛を見つめた。


「はい。でも凛先生なら、きっと美沙ちゃんの心の奥底にある問題を見つけ出せると思います」


 凛は微笑みながら答えた。


「ありがとう、紫苑。全力を尽くすわ」


「それでは、患者さんをお呼びしてよろしいですか?」


「ええ」


 紫苑が部屋を出ていくと、凛は深く息を吸った。これから向き合う少女の心の中に、一体何が待っているのか……。凛の心に、わずかな不安が芽生えた。


 しばらくして、ドアが再び開いた。


 入ってきたのは、小柄な少女だった。長い黒髪が顔を半分隠している。パステルブルーのワンピースは清楚な印象を与えるが、その表情は驚くほど無表情だった。


「美沙ちゃん、こちらが担当医の蒼井凛先生よ」


 紫苑の紹介に、美沙は反応を示さなかった。


「よろしくね、美沙ちゃん」


 凛は優しく語りかけたが、美沙の表情は変わらない。


「それでは、私は退室いたします」


 紫苑が部屋を出ていくと、凛は美沙を診察台に案内した。


「美沙ちゃん、これからあなたの心の中を一緒に見ていきましょうね。怖がることはないわ」


 凛は静かに、優しく美沙の手を取った。


「これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」


 美沙は言われるままに目を閉じた。


 凛も目を閉じ、静かに美沙の心の中へと意識を沈めていった。


 しかし、凛の意識が開かれたとき、そこには想像を絶する光景が広がっていた。


 無。


 完全なる虚無。


 凛の周りには、何もなかった。色も音も匂いも、そして感覚さえも存在しない世界。


「これは一体……これが本当に生きている人間の心の中なの?」


 凛の声が、虚無の中に吸い込まれていく。恐怖が凛の心を襲った。自分もこの虚無に飲み込まれてしまうのではないか……。


(冷静に……冷静になるのよ、凛)


 凛は必死に自分に言い聞かせた。


(これが美沙ちゃんの心の中……ということは、何かがあったはず。何もないということは、つまり……)


 凛の中で、ゆっくりと推理が始まった。


(美沙ちゃんは、何かから自分を守るために、全てを消し去ったのかもしれない。でも、どうして? 何から逃げようとしているの?)


 凛は虚無の中を歩き始めた。歩いているという感覚すらない中で、凛は美沙の存在を必死に探し求めた。


(美沙ちゃん、どこにいるの? あなたの本当の姿を見せて……)


 凛の心の叫びが、虚無の中に響き渡る。そして、その瞬間……。


 遠くに、微かな光の点が見えた。その光は、虚無の中でまるで迷子になった星のようにか細く揺らめいていた。


(あれは……美沙ちゃんの心の欠片?)


 凛は光に向かって歩み寄ろうとしたが、虚無の中では距離感覚が完全に失われていた。歩いているつもりでも、光との距離は一向に縮まらない。


(こんなところで諦めるわけにはいかない)


 凛は目を閉じ、深く息を吸った。そして、心の中で美沙の姿を思い浮かべた。診察室で見た、無表情ではあるが確かに生きている少女の姿を。


 すると不思議なことに、光が少しずつ大きくなっていくのを感じた。凛は目を開け、その光に向かって手を伸ばした。


 光に触れた瞬間、凛の周りの景色が一変した。


 そこは、小さな子供部屋だった。パステルピンクの壁紙、ぬいぐるみが並ぶベッド、そして机の上には可愛らしい飾りが置かれている。しかし、その部屋全体が霞んでいて、まるで古い写真のようにぼやけていた。


 部屋の中央に、幼い美沙が座っていた。5歳くらいだろうか。彼女は膝を抱えて、小さく身を縮めている。


「美沙ちゃん?」


 凛が声をかけると、幼い美沙はゆっくりと顔を上げた。その目には、深い悲しみと恐怖が宿っていた。


「どうしたの? 何があったの?」


 美沙は口を開いたが、声は出ない。代わりに、部屋の景色が揺らぎ始めた。


 次の瞬間、凛は別の光景の中にいた。


 そこは小学校の教室。美沙は少し大きくなっていて、机に向かって座っている。しかし、クラスメイトたちの姿がぼやけていて、はっきりと見えない。


 美沙の周りに、かすかに黒い霧のようなものが漂っている。その霧が、美沙を包み込もうとしているかのようだった。


(これは……孤立? いじめ?)


 凛が推測を巡らせていると、再び景色が変わった。


 今度は中学校の廊下。13歳くらいの美沙が、壁に寄りかかって立っている。彼女の表情には、言いようのない疲れが見えた。


 凛は美沙に近づこうとしたが、突然強い力で引き戻されるのを感じた。


 気がつくと、凛は再び虚無の空間に戻っていた。しかし今度は、かすかに美沙の姿が見えた。


 15歳の美沙が、虚無の中で浮遊している。彼女の周りには、先ほど見た光景のかけらが、ガラスの破片のように漂っていた。


「美沙ちゃん、聞こえる? 私よ、凛、蒼井凛」


 凛の声に、美沙はゆっくりと目を開けた。その瞳には、深い虚無感が宿っていた。


「なぜ……なぜここに来たの?」


 美沙の声は、かすかに響いた。


「あなたを助けに来たのよ。一人じゃないわ」


 凛は優しく語りかけた。


「でも……私には何もないの。何も感じない。何も……」


 美沙の言葉に、凛は強く首を振った。


「違うわ。あなたの中には、たくさんの思い出がある。感情がある。ただ、今は隠れているだけ」


 凛は美沙に手を差し伸べた。


「一緒に探してみない? あなたの本当の姿を」


 美沙の指先が、ゆっくりと、まるで永遠の時間をかけるかのように凛の手に近づいていく。その動きには、恐れと期待が入り混じっていた。美沙の心の中で、長い間眠っていた何かが、微かに目覚め始めていた。


 指先が触れ合った瞬間、世界が変容した。


 虚無の空間に、突如として無数の光の粒子が現れ始めた。それは、星屑のように美しく、同時に儚い輝きを放っていた。各々の粒子が、美沙の失われた感情や記憶の欠片を内包している。


 喜びの黄金色、悲しみの深い青、怒りの赤、そして愛情のピンク……。様々な色を持つ光の粒子が、ゆっくりと舞い始めた。


「見て、美沙ちゃん。これが本当のあなたよ」


 凛の声が、優しく美沙の心に響く。


 美沙は、目の前に広がる光景に息を呑んだ。長い間、自分の中には何も残っていないと思い込んでいた。しかし、そこにあるのは、確かに自分自身だった。


 美沙の瞳に、初めて感情の色が宿り始めた。それは、凍えていた大地に春の陽光が差し込むような、驚きと希望の光だった。彼女の心の奥底で、長い冬の眠りから目覚めたような温かさが広がっていく。


「私は……まだ生きているの?」


 その言葉には、恐れと期待が混ざっていた。自分がまだ生きているという事実に、美沙は戸惑いを感じていた。しかし同時に、心の奥底では、生きることへの小さな、けれども確かな願いが芽生え始めていた。


「ええ、そうよ。そして、これからも生きていく」


 凛の言葉が、美沙の心に深く染み込んでいく。それは、長い間閉ざされていた扉を、優しくノックする音のようだった。


 美沙の唇が、かすかに動いた。それは、微笑みと呼ぶにはあまりにも小さな動きだったが、確かに笑顔の形をしていた。まるで、彼女の心が、長い沈黙を破って何かを語り始めたかのようだった。


 その瞬間、驚くべきことが起こった。


 虚無の世界に、ゆっくりと色が戻り始めたのだ。最初は薄い水彩画のような淡い色合いだったが、徐々に鮮やかさを増していく。空には柔らかな青が広がり、足元には緑の草が生え始めた。遠くには、桜の木が一本、淡いピンクの花を咲かせている。


 美沙の周りを舞う光の粒子たちも、より一層輝きを増した。それぞれの粒子が、美沙の中に戻っていくかのように、彼女の体に吸収されていく。


 その度に、美沙の表情がわずかに変化した。時に悲しみの色が浮かび、時に喜びの色が宿る。それは、彼女が自分の感情を取り戻していく過程そのものだった。


 美沙は、自分の手のひらを見つめた。そこには、小さな光の粒子が一つ、穏やかに輝いていた。


「これが……私?」


 美沙の声には、不思議なほどの柔らかさが戻っていた。


「そう、それがあなたよ。小さくても、確かに輝いている」


 凛は優しく頷いた。


 美沙は、その光の粒子を胸元に抱きしめた。その瞬間、彼女の体全体が淡い光に包まれた。それは、彼女が自分自身を受け入れた証のようだった。


「ありがとう……先生」


 美沙の言葉に、凛は温かな微笑みを返した。


 二人の周りの世界は、今や色彩に満ちあふれていた。それは美沙の心そのものを映し出す鏡のようで、希望と可能性に満ちた新しい世界の始まりを告げていた。


 美沙は深呼吸をした。その呼吸と共に、彼女の中に新しい生命力が流れ込んでいくのを感じた。


 長い冬の眠りから目覚めた美沙の心は、今、確かに春の訪れを感じていた。


 虚無の世界に、ゆっくりと色が戻り始める。


 凛は静かに目を開けた。現実の診察室に戻ってきたのだ。美沙もまた、ゆっくりと目を開けた。


「どうだった? 美沙ちゃん」


 美沙は小さく頷いた。その目には、僅かではあるが、確かな感情の色が宿っていた。


「少しだけ……暖かかった」


 その言葉に、凛は安堵の笑みを浮かべた。


「これはまだ始まり。これからゆっくり、あなたの世界に色を取り戻していきましょう」


 診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。それは、美沙の新たな人生の幕開けを祝福しているかのようだった。

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