第5話:「歪んだ鏡の中で」

 蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。秋の柔らかな陽光が、彼女の白衣を優しく照らしている。首元でさりげなく輝く一粒ダイヤのネックレスが、凛の知的な雰囲気をより一層引き立てていた。


 ノックの音が静寂を破る。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。紫苑は清潔感のあるナース服に身を包み、髪をきちんとまとめ上げていた。


「凛先生、次の患者さんの資料です」


 紫苑はクリップボードを凛に手渡した。


「ありがとう、紫苑。どんな方なの?」


 凛は資料に目を通しながら尋ねた。


「彩河碧さん、22歳の女性です。重度の醜形恐怖症を患っているようです」


 紫苑の表情に、わずかな憂いの色が浮かぶ。


「なるほど……。症状の詳細は?」


「自分の顔が極端に醜いと思い込んでいて、外出もままならない状態だそうです。来院の際も、顔を完全に覆い隠していました」


 凛は眉をひそめた。


「若い女性にとって、辛い症状ね。どんなきっかけで発症したのかしら」


「それが……はっきりとしたきっかけは不明です。ただ、大学時代に何か嫌な経験があったようです」


 凛は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「わかったわ。彩河さんの心の奥底にある問題にアプローチする必要がありそうね」


 凛はしばらくあごに手をあてて考え込んだ。


「さて、患者さんをお呼びしましょう」


 凛の言葉に、紫苑は「はい」と答え、部屋を出ていった。


 しばらくして、ドアが再び開き、紫苑が彩河碧を案内して入ってきた。


 彩河碧は、全身を覆う緩やかなワンピースを着用し、大きな帽子とマスク、サングラスで顔を完全に隠していた。その姿は、まるで自分の存在そのものを消し去りたいかのようだった。


「彩河さん、こちらが担当医の蒼井凛先生です」


 紫苑の紹介に、碧は小さく頭を下げた。


「よ、よろしくお願いします……」


 その声には、か細さと同時に、どこか悲しみの色が感じられた。


「こちらこそ。どうぞ、お掛けください」


 凛は穏やかな笑顔で碧を診察台に案内した。


「それでは、私は退室いたします」


 紫苑が部屋を出ていくと、凛は碧の正面に座った。


「彩河さん、今日はゆっくりお話を聞かせてください。そして、あなたの心の奥底にある問題を一緒に解決していきましょう」


 碧は少し身を縮めるようにして、小さな声で答えた。


「は、はい……。でも、私……私の顔は……」


 凛は優しく微笑んだ。


「大丈夫です。ここは安全な場所。あなたの気持ちを、そのまま話してください」


 碧は深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。


「私……自分の顔が、とても醜いんです。鏡を見るのも怖くて……。外を歩くときも、みんなが私を見て、笑っているような気がして……」


 その言葉には、深い苦しみと孤独が滲んでいた。


「いつからそう感じるようになったの?」


 凛の問いかけに、碧は少し考え込んだ。


「大学生の頃からです。でも、きっかけははっきりとは……」


 碧の言葉が途切れる。凛は静かに待った。


「ただ、友達との会話の中で、自分の顔のことを指摘されて……。それ以来、自分の顔が気になって仕方がなくなって……」


 碧の声が震える。凛は慎重に、しかし確固たる意志を込めて語りかけた。


「わかりました。彩河さん、これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」


 碧は言われるままに目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。


 凛もまた目を閉じ、碧の手を取った。そして、静かに碧の心の中へと意識を沈めていった……。


 凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。


 無数の歪んだ鏡が林立する迷路のような空間。それぞれの鏡には碧の顔が映っているが、全てが異なる形に歪んでいた。ある鏡では碧の目が異常に大きく、別の鏡では鼻が極端に長い。また別の鏡では唇が歪んでいる。どの鏡も、碧の顔の一部を誇張し、醜く歪めていた。


 凛は静かにその空間を見渡した。


(この鏡の歪みは、碧さんの自己認識の歪みを表しているのね。そして、この迷路は……碧さんが自己認識から抜け出せない状況を象徴しているのかもしれない)


 凛は慎重に歩を進めた。足元はガラスの破片で覆われており、それぞれの破片にも碧の歪んだ顔が映っている。その光景に、凛の胸が痛んだ。


(これほど多くの鏡があるということは、碧さんが常に自分の外見を気にしている状態を示唆しているわ)


 凛は迷路を進みながら、碧を探した。途中で出会う鏡に映る碧の顔は、凛の目には普通に見える。むしろ、整った顔立ちの可愛らしい女性の顔だった。


「碧さん! どこにいるの?」


 凛の声が、鏡の迷宮に響き渡る。しかし、返事はない。


 凛は歩みを進めるうちに、鏡の歪みがより激しくなっていることに気づいた。


(中心に近づいているのかもしれない)


 そう考えた凛の予想は的中した。迷路の中心に差し掛かったとき、凛は碧を発見した。


 碧は巨大な鏡の前にうずくまり、顔を両手で覆っていた。彼女の周りの鏡は特に歪んでおり、そこに映る碧の顔は、もはや人間のものとは思えないほどに変形していた。


「碧さん……」


 凛は静かに近づき、碧の肩に手を置いた。


 碧はビクッと体を震わせ、おそるおそる顔を上げた。その瞳には、深い絶望と恐怖が宿っていた。


「先生……? どうして、ここに……」


「あなたの心の中よ、碧さん。この鏡は、あなたが自分自身をどう見ているかを表しているの」


 碧は困惑した表情で周囲を見回した。


「こんな歪んだ鏡ばかり……。私の心って、こんなにも醜いんでしょうか」


 凛は優しく首を横に振った。


「違うわ。これは単なる歪んだ認識よ。本当のあなたは、こんなふうには見えないわ」


「でも……」


 碧は再び鏡を見つめ、顔をゆがめた。


「私には、こんなふうにしか見えないんです。醜く、歪んで……」


 凛は碧の前にしゃがみ込み、彼女の目をしっかりと見つめた。


「碧さん、私の目を通して鏡を見てみない?」


「え……?」


「私の視点で、あなたの姿を見てみてほしいの」


 碧は躊躇いながらも、少しずつ凛の視点で鏡を見始めた。すると、驚くべきことが起こった。


 鏡に映る顔が、まるで魔法にかけられたかのように、徐々に変化し始めたのだ。これまで極端に誇張されていた目の大きさが自然な大きさに戻り、不自然に長かった鼻が整った形に変化していく。歪んでいた唇も、柔らかなピンク色の優美な形に戻っていった。


 歪みが解けていくにつれ、本来の碧の顔が姿を現し始めた。整った顔立ちの、愛らしい女性の顔。澄んだ瞳、小さな鼻、柔らかな唇線。それは確かに美しく、魅力的な顔だった。


「こ、これは……」


 碧の声が震えた。彼女の瞳は驚きと混乱で見開かれ、鏡に映る自分の姿を凝視していた。しかし、その表情にはまだ深い戸惑いと不信が残っていた。


「違います! これは私じゃない! 私はもっと醜くて……」


 碧は激しく首を振り、両手で顔を覆おうとした。その仕草には、長年自分を醜いと思い込んできた者の強い否定の感情が表れていた。


 凛は静かに、しかし確固とした口調で碧に語りかけた。


「碧さん、落ち着いて。よく見て。これがあなたの本当の姿なのよ」


 碧は手を少し開き、指の隙間から恐る恐る鏡を覗き見た。


「で、でも……私はずっと……」


 凛は優しく碧の肩に手を置いた。


「そもそも『美しい』『醜い』って何かしら? そこに絶対的な基準はないわ」


 碧は驚いたように凛を見つめた。


「絶対的な基準が……ない?」


「そう。美しさは見る人の目によって変わるの。それに、外見だけが人の価値を決めるわけじゃない」


 凛はゆっくりと続けた。


「あなたが醜いと思い込んでいたのは、自分自身への厳しすぎる評価が作り出した幻なのよ。本当のあなたは、もっと魅力的で価値のある存在なの」


 碧の目に、小さな光が宿り始めた。それは、長い間閉ざされていた心の扉が、少しずつ開き始めた証だった。


「本当の……私……」


 碧は再び鏡を見つめた。そこに映る顔は、確かに美しかった。しかし、それ以上に大切なのは、その顔に宿る感情だった。不安と希望、戸惑いと決意。それらが混ざり合い、生き生きとした表情を作り出していた。


 凛は静かに微笑んだ。碧の中で、何かが大きく変わり始めていることを感じ取っていた。


 凛は根気強く寄り添い、碧の手を取った。


「これが本当のあなたよ、碧さん。あなたが思っているよりずっと美しい」


 碧の目に、大粒の涙が浮かんだ。


「でも……どうして……」


「あなたは自分自身を厳しく見すぎていたの。他人の何気ない一言を、必要以上に気にしてしまって」


 凛の言葉に、碧の体が小刻みに震え始めた。


「私……私……」


 碧が自分の本当の姿を少しずつ受け入れ始めると、周りの鏡が一斉に砕け散った。迷路が消え、代わりに広々とした草原が現れた。


 碧は呆然と周囲を見回した。


「これが……私の心……?」


 凛は優しく微笑んだ。


「そう。これがあなたの本当の心よ。広々として、可能性に満ちている」


 碧の顔に、初めて安堵の表情が浮かんだ。


「先生……ありがとうございます」


 凛は静かに目を開けた。現実の診察室に戻ってきたのだ。碧もまた、ゆっくりと目を開けた。


「どうだった? 碧さん」


 碧は小さく頷いた。その目には、僅かではあるが、確かな希望の光が宿っていた。


「少しだけ……楽になりました」


 凛は満足げに頷いた。


「よかった。でも、これはまだ始まりよ。これからゆっくり、あなたの本当の姿を取り戻していきましょう」


 碧は震える手でマスクを外し、部屋の鏡を見た。そこには歪みのない、本来の自分の顔が映っている。


 凛は碧に語りかけた。


「鏡に映るあなたの姿は、他人の目に映るあなたの姿そのものです。自分を信じることが、世界を変える第一歩になるのです」


 診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。それは、碧の新たな人生の幕開けを祝福しているかのようだった。

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