第6話:「時計仕掛けの記憶」
朝日が差し込む診察室で、蒼井凛は窓際に立っていた。彼女の白衣は柔らかな光を受けて淡く輝き、首元の一粒ダイヤのネックレスが小さな虹を作っている。凛は深呼吸をし、これから始まる診療の準備を整えていた。
ノックの音が静寂を破る。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。紫苑は清潔感のあるナース服に身を包み、肩にかかる茶色のボブヘアをきちんとまとめている。
「おはようございます、凛先生」
「おはよう、紫苑。今日の患者さんの資料は?」
紫苑はクリップボードを凛に手渡しながら、少し躊躇うように口を開いた。
「はい、ここに……。それで、凛先生。今日の患者さん、少し特殊なケースなんです」
凛は紫苑の言葉に、眉をひそめた。
「どういうこと?」
「患者さんは、褥崎有栖さん。27歳の女性です。彼女は……」
紫苑は言葉を選ぶように一瞬躊躇った。
「彼女は、2年前の交通事故以来、毎日同じ行動を繰り返し、新しい記憶を形成できなくなったそうです。毎朝目覚めると、事故の前日の記憶しかないんです」
凛は資料に目を通しながら、深く考え込んだ。
「なるほど……。非常に珍しいケースね。解離性健忘症の一種かもしれない」
「はい。でも、通常の解離性健忘症とは少し違うようです。彼女は過去の記憶は保持しているんです。ただ、新しい記憶が形成できないだけなんです」
凛は静かに頷いた。
「わかったわ。慎重に対応する必要がありそうね」
紫苑は少し心配そうな表情で凛を見つめた。
「はい。でも凛先生なら、きっと有栖さんの心の奥底にある問題を見つけ出せると思います」
凛は微笑みながら答えた。
「ありがとう、紫苑。全力を尽くすわ」
凛は資料をもう一度確認し、紫苑に向き直った。
「紫苑、有栖さんが来る前に、もう少し詳しく話を聞かせて」
紫苑は頷き、クリップボードを胸に抱えながら説明を始めた。
「有栖さんは、2年前まで旅行会社で働いていました。仕事熱心で、将来を期待されていた有望な社員だったそうです。しかし、2年前の7月15日、取引先との打ち合わせに向かう途中で交通事故に遭いました」
「重傷だったの?」
「いいえ、幸い軽傷で済んだそうです。しかし、その日を境に彼女の時間が止まってしまったんです」
凛は眉をひそめ、考え込んだ。
「外傷性脳損傷の可能性は?」
「MRIや CT スキャンでは異常が見つかっていません。そのため、心因性の可能性が高いと考えられています」
凛は静かに頷いた。
「なるほど。彼女の家族や周囲の人たちは、この状況にどう対応しているの?」
「両親と妹が交代で彼女の世話をしています。毎日、彼女に状況を説明し、日記を読ませているそうです。しかし、翌朝には全て忘れてしまうんです」
凛は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「分かったわ。この症状の裏には、きっと深い心の傷があるはずよ。私にできることがあれば、全力で取り組むわ」
紫苑は安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます、先生。有栖さんをお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いするわ」
紫苑が部屋を出ていくと、凛は窓際に立ち、外の景色を眺めた。木々の緑が風に揺れ、穏やかな午前の光景が広がっている。凛は深く息を吸い、これから向き合う難しいケースに対する覚悟を決めた。
しばらくして、ドアがノックされた。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、紫苑が褥崎有栖を案内して入ってきた。
有栖は小柄で華奢な女性だった。肩まで届く黒髪は艶があり、大きな瞳には知的な輝きが宿っている。彼女はペールピンクのブラウスに白のスカートを合わせ、首元にはさりげないパールのネックレスを身につけていた。その姿は、事故前の彼女の洗練された趣味を物語っているようだった。
「有栖さん、こちらが担当医の蒼井凛先生です」
紫苑の紹介に、有栖は小さく頭を下げた。
「はじめまして、褥崎有栖です。よろしくお願いします」
その声には、不安と期待が入り混じっているように感じられた。
「こちらこそ、有栖さん。どうぞ、おかけください」
凛は穏やかな笑顔で有栖を診察台に案内した。
「それでは、私は退室いたします」
紫苑が部屋を出ていくと、凛は有栖の正面に座った。
「有栖さん、今日はゆっくりお話を聞かせてください。そして、あなたの心の奥底にある問題を一緒に解決していきましょう」
有栖は少し戸惑ったように凛を見つめた。
「先生……私、明日になればどうせまた今日のことを忘れてしまうんです。こんな治療、一体何の意味があるのでしょうか」
その言葉には、深い諦めと悲しみが滲んでいた。凛は優しく微笑んだ。
「必ず方法はあります。これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」
有栖は言われるままに目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。
凛も目を閉じ、有栖の手を優しく取った。そして静かに有栖の心の中へと意識を沈めていった。周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。
凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。
果てしなく広がる空間に、巨大な時計仕掛けの世界が出現していた。無数の歯車が複雑に絡み合い、カチカチと音を立てながら回転している。その音が空間全体に響き渡り、まるで世界の鼓動のようだった。
凛は驚きを隠せず、目を見開いた。
「これが……有栖さんの心の中」
彼女は慎重に一歩を踏み出した。足元は透明な板のようで、その下には更に多くの歯車が見える。凛は周囲を見回し、この奇妙な世界の意味を理解しようと試みた。
すると、歯車の間に人影を見つけた。それは間違いなく有栖だった。
「有栖さん!」
凛は声をかけながら、慎重に歯車の間を縫って有栖に近づいていった。有栖は大きな歯車の前に立ち、虚ろな目で上を見上げていた。
「先生……ここは……?」
有栖の声は、歯車の音にかき消されそうなほど小さかった。
「ここはあなたの心の中よ、有栖さん。この時計仕掛けの世界は、あなたの心理状態を表しているの」
凛は優しく説明した。しかし、有栖の表情は混乱したままだった。
「私の……心? でも、なぜ時計なんです?」
凛は深く考え込んだ。この時計仕掛けの世界が意味するものを推理しようとしていた。
(この無数の歯車は、有栖さんの記憶を表しているのかもしれない。そして、それらが同じ場面を繰り返し再生している……)
「有栖さん、この時計仕掛けは、あなたの時間感覚を表しているのだと思います。事故の衝撃で時間が止まってしまい、新しい記憶を刻むことができなくなったのではないでしょうか」
有栖は凛の言葉に、はっとした表情を浮かべた。
「時間が……止まった?」
「そう、あなたの心の中で。だからこそ、新しい記憶が形成できないのよ」
凛は歯車をよく観察した。すると、全ての歯車が一定のリズムで回転していることに気づいた。
「有栖さん、この歯車たちを見て。全て同じリズムで回っているわ。これが、あなたが毎日同じ行動を繰り返している理由かもしれない」
有栖は歯車を見つめ、おそるおそる触れてみた。
「冷たい……でも、確かに動いている」
「そう、動いているけど、前に進んでいないの。私たちは、この状況を変える必要があります」
凛は周囲を見回し、何か手がかりはないかと探した。すると、遠くに巨大な振り子が見えた。
「あそこよ、有栖さん。あの振り子が、この時計仕掛けの中心なのかもしれない」
二人は慎重に歯車の間を縫って、振り子に向かって歩き始めた。道中、様々な大きさの歯車が彼らの行く手を阻むが、凛は冷静に状況を分析しながら、最適な経路を見つけていく。
振り子に近づくにつれ、凛は重要な事実に気づいた。
「有栖さん、見て。振り子が動いていないわ」
確かに、巨大な振り子は静止したままだった。
「これが、あなたの時間が止まっている原因かもしれない」
有栖は振り子を見上げ、おずおずと尋ねた。
「じゃあ、これを動かせば……私の記憶は戻るんでしょうか?」
「その可能性は高いわ。でも、簡単ではないかもしれない。この振り子はとても大きいもの」
凛は振り子の根元を調べ、どうすれば動かせるか考えた。
「有栖さん、一緒に振り子を押してみましょう。あなたの力が必要よ」
有栖は不安そうな表情を浮かべたが、凛の言葉に頷いた。
「はい……やってみます」
二人は振り子に手をかけ、全身の力を込めて押し始めた。最初は微動だにしなかったが、徐々に揺れ始めた。
「そう、その調子よ!」
凛の励ましの声に、有栖も力を込めた。振り子が大きく揺れ始めると、周囲の歯車たちも少しずつ動き始めた。
「見て、有栖さん! 歯車が変化し始めているわ」
確かに、これまで同じリズムで回っていた歯車たちが、今や様々な速度で回転し始めていた。そして、新しい歯車が生まれては消え、世界全体が活気づいていく。
有栖の表情に、少しずつ生気が戻り始めた。
「先生、私……何か思い出せそうな気がします」
「そう、その感覚を大切にして。あなたの中で時間が動き始めているのよ」
振り子が大きく揺れるにつれ、世界全体が明るくなっていった。歯車の間から、新しい景色が見え始める。それは有栖の新しい記憶の断片だった。
突然、振り子が激しく揺れ、二人は弾き飛ばされそうになった。
「しっかりつかまって、有栖さん!」
凛は有栖の手を強く握り、二人で踏ん張った。世界が激しく揺れる中、有栖の目に涙が浮かんだ。
「怖い……でも、もう逃げたくない。私、前に進みたいんです!」
その言葉と共に、振り子が一気に加速し、世界全体が光に包まれた。
……
凛が目を開けると、診察室に戻っていた。有栖もまた、ゆっくりと目を開けた。
「どうですか、有栖さん?」
有栖は困惑した表情を浮かべながらも、どこか晴れやかな様子だった。
「先生……私、覚えています。今日あったこと、全部覚えているんです」
凛は優しく微笑んだ。
「良かった。あなたの中で、時間が再び動き始めたのね」
有栖は涙を浮かべながら、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。私……これからは毎日を大切に生きていきます」
凛は静かに頷いた。
「時は常に前に進もうとしている。私たちがすべきなのは、その流れを受け入れ、共に歩んでいくことなのよ」
診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。それは、有栖の新たな人生の始まりを祝福しているかのようだった。
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