第7話:「声にならない叫び」
蒼井凛は、診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。首元で静かに輝く一粒ダイヤのネックレスが、凛の凛とした佇まいに華を添えていた。
ノックの音が静寂を破る。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。紫苑の着ているペールブルーのナース服は、彼女の温かな雰囲気をより引き立てている。
「おはようございます、凛先生」
「おはよう、紫苑。今日の患者さんの資料は?」
紫苑はクリップボードを凛に手渡しながら、少し躊躇うように口を開いた。
「はい、ここに……。それで、凛先生。今日の患者さん、少し特殊なケースなんです」
凛は紫苑の言葉に、眉をひそめた。
「どういうこと?」
「患者さんは、田中さくらちゃん。17歳の女子高生です。彼女は……」
紫苑は言葉を選ぶように一瞬躊躇った。
「突然、声が出なくなってしまったんです。医学的には身体的な異常が見つからず、心因性の可能性が高いそうです」
凛は資料に目を通しながら、深く考え込んだ。
「なるほど……。声が出ないということは、コミュニケーションも難しいわけね」
「はい。さくらちゃん、現在筆談で意思疎通をしています。それと、彼女は合唱部のエースだったそうです。重要なコンクールの直前にこんなことになって……」
紫苑の声には、さくらへの同情が滲んでいた。
凛は静かに頷いた。
「わかったわ。慎重に対応する必要がありそうね」
紫苑は少し心配そうな表情で凛を見つめた。
「はい。でも凛先生なら、きっとさくらちゃんの心の奥底にある問題を見つけ出せると思います」
凛は微笑みながら答えた。
「ありがとう、紫苑。全力を尽くすわ」
凛は紫苑の信頼に、いつも以上の責任を感じていた。しかし同時に、自分の能力を使わざるを得ない状況に、複雑な思いも抱いていた。
「それでは、患者さんをお呼びしてよろしいですか?」
「ええ、お願いするわ」
紫苑が部屋を出ていくと、凛は深く息を吸った。これから向き合う少女の心の中に、一体何が待っているのか……。凛の心に、わずかな不安と期待が入り混じっていた。
しばらくして、ドアが再び開いた。
入ってきたのは、小柄な少女だった。肩まで届く黒髪が、彼女の繊細な雰囲気を引き立てている。白のブラウスに紺のプリーツスカート、胸元には学校のエンブレムが光っている。
「さくらちゃん、こちらが担当医の蒼井凛先生よ」
紫苑の紹介に、さくらは小さく頭を下げた。その仕草には、礼儀正しさと同時に、深い不安が滲んでいた。
「よろしくね、さくらちゃん」
凛は優しく語りかけた。さくらは小さくうなずいたが、その目には戸惑いの色が浮かんでいた。
「それでは、私は退室いたします」
紫苑が部屋を出ていくと、凛はさくらを診察台に案内した。
「さくらちゃん、これからあなたの心の中を一緒に見ていきましょうね。怖がることはないわ」
凛は静かに、優しくさくらの手を取った。その手は少し冷たく、かすかに震えている。凛は、さくらの不安を和らげるように、そっと手を包み込んだ。
「これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中するのよ」
さくらは言われるままに目を閉じた。その長いまつげが、頬に影を落としている。
凛も目を閉じ、静かにさくらの心の中へと意識を沈めていった。
凛の意識が開かれたとき、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
巨大な音楽ホール。豪華な装飾が施された壁、天井からはシャンデリアが優雅に輝いている。しかし、そこには一切の音がない。完全な無音の世界。
舞台の上には、さくらが立っていた。彼女は口を動かしているが、何も聞こえない。その姿は、まるで音のない世界に閉じ込められた小鳥のようだった。
(これが……さくらちゃんの心の中)
凛は静かにホールを見渡した。
(この無音の音楽ホールが、さくらちゃんの失われた声を表しているのね)
凛はゆっくりとさくらに近づいた。
「さくらちゃん」
凛の呼びかけに、さくらはハッとした様子で振り向いた。その目は驚きと混乱で満ちていた。
「大丈夫よ。私はあなたを助けに来たの」
さくらは口を動かしたが、やはり声は出ない。彼女の目に、焦りの色が浮かんだ。
「心配しないで。ここではあなたの気持ちが私に伝わるわ」
凛の言葉に、さくらは少し安堵したようだった。
(さくらちゃんの声がここにないということは……どこかに隠れているのかもしれない)
凛はホールを見渡した。すると、舞台袖に小さな扉があるのに気がついた。
「さくらちゃん、あの扉を見てみましょう」
二人で舞台袖に向かう。扉を開けると、そこには螺旋階段があった。階段を降りていくと、地下室のような空間に出た。
そこで、凛は驚くべきものを目にした。
小さな鳥かごの中に、美しい声を持つ鳥が閉じ込められていたのだ。鳥は口を開けて鳴いているようだったが、やはり音は聞こえない。
(これが……さくらちゃんの声を象徴しているのね)
凛はさくらの方を見た。さくらの目には、恐れと切なさが混ざっていた。
「さくらちゃん、この鳥があなたの声なのよ。なぜ、閉じ込めてしまったの?」
さくらの目に、涙が浮かんだ。彼女の心の声が、凛に届く。
(歌えなくなるのが怖かった……。みんなの期待に応えられないのが怖くて……)
凛は優しく微笑んだ。
「でも、こうして閉じ込めてしまっては、歌うことはできないわ。さくらちゃん、鳥かごを開ける勇気はある?」
さくらは躊躇した。その表情には、恐れと希望が交錯していた。
凛はゆっくりとさくらの手を取った。
「大丈夫よ。一緒にやりましょう」
二人で鳥かごに近づく。さくらの手が、かごの扉に触れる。しかし、最後の一歩が踏み出せない。
凛は静かにさくらの肩に手を置いた。
「さくらちゃん、あなたの声は美しいのよ。それを信じて」
さくらの目に、決意の色が宿る。彼女はゆっくりと、しかし確実に鳥かごの扉を開けた。
その瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。そして、驚異の奇跡が起こった。
鳥かごから解放された一羽の鳥が、虹色の羽根を輝かせながら舞い上がった。その姿は、まるで長い囚われの身から解放された魂のようだった。鳥が羽ばたく度に、空気が震え、目に見えない波紋が広がっていく。
と、突如として、天上から降り注ぐ光の筋が鳥を包み込んだ。その瞬間、世界を揺るがすような美しい歌声が響き渡った。それはさくらの心の奥底に眠っていた、純粋で力強い魂の叫びだった。
その歌声は、まるで春の訪れを告げる小川のせせらぎのように清らかで、時に嵐の中で咆哮する大海のように荘厳だった。音符の一つ一つが、宝石のように輝きながらホールの隅々まで行き渡る。
さくらの瞳から、真珠のような涙が頬を伝って落ちていく。その一粒一粒が床に触れる度に、小さな花が咲き誇るかのようだった。彼女の唇が震え、ゆっくりと開く。
「あ……あ……」
かすかな声が、さくらの喉から漏れ出す。それは、長い冬を越えて芽吹く新芽のように、儚くも力強かった。
凛の目に喜びの光が宿る。
「そう、その調子よ。さくらちゃん、歌って!」
その言葉は、さくらの心に眠る巨人を目覚めさせるかのようだった。彼女は深く息を吸い込み、そして歌い始めた。
最初は小さな、ささやくような声だった。しかし、その歌声は次第に大きくなり、力強さを増していく。まるで、小さな火種から燃え広がる炎のように、さくらの歌声はホール全体を包み込んでいった。
音符が空中を舞い、壁や天井に触れる度に、それらは暖かな光に変わっていく。ホール全体が、さくらの感情そのものである光で満たされていった。それは悲しみ、喜び、怒り、そして何よりも強い希望の光だった。
凛は微笑みながら、その歌声に身を委ねた。彼女の心の中で、静かな感動が広がっていく。
(これが、さくらちゃんの本当の声……。美しい)
その瞬間、凛は確信した。彼女が目の当たりにしているのは、単なる治療の成功ではない。それは、一つの魂が真の姿を取り戻す瞬間、人間の精神の持つ無限の可能性が花開く瞬間だったのだ。
さくらの歌声は、今や宇宙の果てまで届くかのような壮大さを帯びていた。それは生命の始まりを告げる原初の歌であり、同時に全ての終わりを静かに見守る永遠の調べでもあった。
そして、その歌声は全てを包み込み、癒し、そして新たな世界の扉を開いていくのだった。
歌が終わると、さくらは驚いたように凛を見つめた。
「先生……私、歌えました……」
「ええ、素晴らしい歌声だったわ」
さくらの顔に、久しぶりの笑顔が浮かんだ。それは、まるで長い冬を越えて咲いた花のように、清々しく美しかった。
「さあ、この声を現実の世界にも持ち帰りましょう」
凛がそう言うと、周囲の景色が溶けていき、二人は現実の診察室に戻った。
さくらがゆっくりと目を開けると、そこには優しく微笑む凛の姿があった。
「どうだった? さくらちゃん」
さくらは小さく息を吸い、そして……。
「先生……あたしまだ歌えるんですね……! ありがとうございます!」
はっきりとした声で、さくらは感謝の言葉を口にした。その瞬間、彼女の目に喜びの涙が浮かんだ。
凛は静かに頷いた。
「さくらちゃん、あなたの声は決して失われてはいなかったのよ。ただ、心の奥底に隠れていただけ。これからは自信を持って、その美しい声を響かせてね」
さくらは深々と頭を下げた。
「はい! 絶対に、諦めません!」
診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。それは、さくらの新たな人生の幕開けを祝福しているかのようだった。
凛は最後にこう付け加えた。
「私たちの中には、自由に羽ばたきたいと願う声がある。その声を信じ、解き放つことで、本当の自分を表現できるのよ」
さくらの瞳に、新たな決意の色が宿った。それは、彼女の人生における大きな転換点となる瞬間だった。
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