第28話:「鏡の中の少女、血の糸を紡ぐ」

 蒼井凛は深呼吸を繰り返しながら、精神医療センターの廊下を歩いていた。前回の面会から一週間。その間、凛は怜奈の心象風景に悩まされ続けていた。無限に続く校舎の廊下、歪んだ子供たちの顔写真、血の滴る赤い糸……。それらのイメージが、凛の夢にまで現れるようになっていた。


 「大丈夫……今度は心の準備ができている」


 凛は自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その声には僅かな震えが混じっていた。


 重い扉が開き、鷹宮怜奈の姿が現れた。前回とは違い、怜奈の表情には警戒心と共に、かすかな期待の色が浮かんでいた。


 「こんにちは、蒼井先生。来てくれたんですね」


 怜奈の声には、安堵と皮肉が混ざっていた。


 「約束したでしょう。あなたの力になりたいんです、怜奈さん」


 凛は静かに椅子に腰掛けた。今回は、怜奈の目をまっすぐ見つめる勇気があった。


 その瞬間、再び凛の意識が揺さぶられた。しかし今回は、心の準備ができていたせいか、前回ほどの衝撃はなかった。怜奈の心象風景が、凛の意識に静かに広がっていく。


 「……あなたは、また私の心を覗いているのね」


 怜奈の声は低く、威圧的だった。しかし、その目には恐怖と共に、好奇心の色も浮かんでいた。


 「はい。でも、怖がらないでください。私はただ、あなたを理解したいだけなんです」


 凛は慎重に言葉を選んだ。


 「理解? 笑わせないでよ。誰も私のことなんて理解なんてできない。両親も、同僚も、婚約者も……みんな私を裏切った」


 怜奈の声が徐々に大きくなる。その目に怒りの炎が灯り始めた。


 「私はいつも、みんなの期待に応えようとしてきた。でも、それは本当の私じゃなかった。誰も、本当の私を見ようとしなかった!」


 怜奈の叫びとともに、凛の見る心象風景が激しく揺れ動いた。廊下の壁に貼られた子供たちの写真が、まるで生きているかのように歪み、悲鳴を上げ始める。


 「落ち着いて、怜奈さん。あなたは……子供たちを傷つけてしまった。それはなぜですか?」


 凛は恐る恐る尋ねた。


 怜奈の表情が一瞬凍りついた。そして、突如として激しい笑い声を上げ始めた。


 「傷つけた? 違う! 私は彼らを救ったのよ!」


 怜奈の目が狂気に満ちていく。


 「この世界は残酷だわ。子供たちは、いずれ大人たちに裏切られ、傷つけられる。だから私は……彼らを清めたの。この世界の汚れに染まる前に」


 怜奈の言葉に、凛は戦慄を覚えた。同時に、心象風景の中で、巨大な鏡に映る怜奈の姿が、幼い少女の姿に変わっていくのが見えた。


 「怜奈さん、あなたは……自分自身を、その子供たちの中に見ていたんですね」


 凛の言葉に、怜奈の表情が凍りついた。


 「違う! そんなことは……」


 怜奈の否定の言葉とは裏腹に、心象風景の中で、血の滴る赤い糸が怜奈の幼い姿を縛り付けていくのが見えた。


 「あなたは、自分自身を救おうとしていたんだ。でも、それは間違っていた」


 凛は静かに、しかし確固とした口調で言った。


 怜奈の目から、大粒の涙が零れ落ちた。


 「私は……私は……」


 怜奈の声が震える。そして突然、激しい嗚咽が面会室に響き渡った。


 凛は思わず立ち上がり、怜奈に近づいた。そして、震える怜奈の肩に、そっと手を置いた。


# 意識の融合:凛、怜奈の心の深淵へ


 蒼井凛の瞳が大きく見開かれた。その瞬間、まるで巨大な渦に飲み込まれるかのような感覚が全身を襲った。凛の意識が激しく揺さぶられ、現実世界の輪郭が霞んでいく。


 「っ……!」


 凛は息を呑んだ。声を出そうとしても、喉から音が出ない。


 突如として、怜奈の心象風景が凛の意識に一気に流れ込んでくる。それは穏やかな流れではなく、荒々しい濁流のようだった。凛の中で、自分の意識と怜奈の記憶が交錯し、混ざり合っていく。


 最初に視界に飛び込んできたのは、また無限に続く校舎の廊下だった。廊下は薄暗く、どこまでも続いているようで、その先は闇に呑まれている。凛は自分がその廊下に立っているような錯覚を覚えた。足元はしっかりしているはずなのに、身体が宙に浮いているような不思議な感覚。


 「これが……怜奈さんの心の中……」


 凛の呟きは、廊下に吸い込まれるように消えていった。


 視線を上げると、天井から無数の赤い糸が垂れ下がっているのが見えた。その一本一本から、鮮やかな赤い血が滴り落ちている。滴る音が、凛の耳に痛いほど鮮明に響く。


 「ポタ……ポタ……」


 その音は、まるで時計の秒針のように規則正しく、怜奈の心の中で絶え間なく流れ続ける罪の意識を象徴しているかのようだった。


 凛は思わず手を伸ばしたが、糸は掴めずにすり抜けていく。その瞬間、凛の指先に冷たい感触。目を凝らすと、指に赤い血が付着していた。


 「これは……私の血? それとも怜奈さんの?」


 答えはわからない。もしかしたら、両方なのかもしれない。


 廊下の先に目をやると、そこには巨大な鏡が佇んでいた。その鏡は、まるで廊下全体を飲み込むかのような圧倒的な存在感を放っている。凛は、自分の意思とは関係なく、その鏡に引き寄せられるように近づいていく。


 鏡に映ったのは、凛自身の姿ではなかった。そこには幼い怜奈の姿が映し出されていた。


 小さな体。乱れた黒髪。大きく見開かれた瞳。


 その目は、恐怖と悲しみ、そして言葉にできない何かで満ちていた。幼い怜奈は、鏡の中から凛をじっと見つめている。その視線に、凛は言いようのない重みを感じた。


 「怜奈……さん?」


 凛が小さく呼びかけると、鏡の中の幼い怜奈がゆっくりと口を開いた。


 「助けて……」


 その言葉は、凛の心に直接響いてきた。それは怜奈の声であり、同時に凛自身の内なる声でもあるような気がした。


 突然、鏡の表面に亀裂が走る。そして、その亀裂から赤い糸が這い出してきた。糸は凛に向かって伸びてくる。


 「だめ!」


 凛が叫んだ瞬間、意識が現実世界に引き戻された。


 目の前には、現在の怜奈が座っていた。その目には涙が溜まっていた。


 「私が……私があなたの過去をしっかりと見せてもらいます。そして、一緒に乗り越えていきましょう」


 凛の言葉が、怜奈の心の奥底まで響いていく。


 面会時間が終わりを告げる警告音が鳴る中、凛と怜奈は静かに向き合っていた。二人の間に、新たな理解と、これから乗り越えなければならない大きな壁が横たわっていることを、互いに感じ取っていた。


 凛は深く息を吐き出した。次の面会では、怜奈の過去により深く踏み込むことになる。そして、その先に何が待っているのか……凛の心に、期待と不安が入り混じっていた。


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