第25話:「捻じれた感情の迷宮」
蒼井凛は、診察室の大きな窓から差し込む夏の陽光を背に、静かに目を閉じていた。彼女の白衣のポケットからは、母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスがわずかに覗いている。凛は深呼吸をし、次の患者を迎える準備を整えていた。
ノックの音とともに、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女の手には、次の患者のファイルが握られていた。
「凛先生、次の患者さんの資料です」
凛は目を開け、紫苑に向き直った。彼女の琥珀色と碧色の瞳が、真剣な眼差しで紫苑を見つめる。
「ありがとう、紫苑。一緒に確認しましょう」
二人は診察室中央の小さなテーブルに向かい、向かい合って座った。凛はファイルを開き、内容を確認し始めた。
「佐々木美雪さん、32歳女性。主訴は感情制御障害ね」
紫苑は静かに頷いた。
「はい。特に深刻なのは、感情表出が状況に全く適合しないことです。悲しい時に怒り、怒る時に泣くなど、感情と表現が完全に乖離しているようです」
凛は眉をひそめ、ファイルをさらに読み進めた。
「最近では、親族の葬式で狂ったように笑い続けてしまい、親族関係が悪化したとも書かれているわ」
紫苑は心配そうな表情を浮かべた。
「凛先生、この症例は非常に難しそうです。どのようなアプローチを取られますか?」
凛は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「まず、美雪さんの内面世界を探る必要がありそうね。感情と表現の乖離がどこから生じているのか、根本的な原因を探らなければ」
凛は紫苑の目をまっすぐ見つめた。
「紫苑、今回も私の能力を使う必要があります。でも、これまで以上に慎重に進める必要がありそうよ」
紫苑は凛の言葉に、強い決意を込めて応えた。
「分かりました。私にできることは全力でサポートします」
凛は微笑み、紫苑の手を軽く握った。
「ありがとう。では、治療の方針を立てましょう。まず、いつものように美雪さんとの信頼関係を築くことが重要ね。彼女の感情表現が混乱していても、私たちは冷静に受け止める必要があります」
紫苑は頷きながら、メモを取り始めた。
「そうですね。患者さんが安心できる環境を作ることが大切です」
凛は続けた。
「それから、私が美雪さんの心の中に入る際は、特に注意が必要よ。彼女の内面世界は、おそらく複雑に歪んでいるはず。私自身が混乱しないよう、しっかりと現実とのつながりを保つ必要があります」
紫苑は真剣な表情で凛を見つめた。
「凛先生、私がしっかりとあなたを見守ります。何か異変があれば、すぐに報告します」
凛は安堵の表情を浮かべた。
「ありがとう、紫苑。あなたがいてくれて本当に心強いわ」
その瞬間、診察室のドアがノックされ、看護師が顔を覗かせた。
「先生、佐々木さんがいらっしゃいました」
凛は立ち上がり、深呼吸をした。彼女の表情には、これから始まる困難な治療への覚悟が浮かんでいた。
「分かったわ。案内してください」
紫苑も立ち上がり、凛の隣に立った。
「頑張りましょう、凛先生」
凛は紫苑に微笑みかけ、ドアの方を向いた。そして、佐々木美雪が部屋に入ってきた。
佐々木美雪が診察室に入ってきた瞬間、部屋の空気が一変した。彼女は黒いワンピースを身につけ、首元には真珠のネックレスが揺れていたが、その装いとは不釣り合いな、大きな笑みを浮かべていた。
「こんにちは、先生! 今日はとってもいい天気ですね!」
美雪の声は明るく弾んでいたが、その目は赤く腫れ上がっていた。明らかに泣いた跡があった。
凛は一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「佐々木さん、よくいらっしゃいました。私が担当医の蒼井凛です。こちらは看護師の美園紫苑です」
凛は優しく微笑みかけたが、美雪の表情が突然曇った。
「はい、よろしくお願いします」
美雪の声は急に低く、沈んだものになった。その変化に、凛は内心で驚きを隠せなかった。
「では、座っていただけますか?」
凛が促すと、美雪はソファに座った。その動作の中にも、何か不自然さがあった。
「佐々木さん、まずはあなたの状況について教えていただけますか?」
美雪は急に涙を流し始めた。しかし、その表情は怒りに満ちていた。
「私はもうだめなんです! 壊れているんです! 人として!」
そう叫びながら、美雪は大声で笑い始めた。
その笑い声は、診察室に不気味に響き渡った。
そう、美雪は本当は大声で泣きたかったのだ。
本当は……。
凛は動揺を隠し、冷静に対応しようと努めた。
「佐々木さん、あなたの気持ちはよく分かります。一緒に、この問題の解決方法を見つけていきましょう」
美雪の笑いが突然止み、今度は怒りに満ちた表情で凛を見つめた。だがその口許は不自然に吊り上がっていた。
「先生には分かりません! 誰にも分からないんです!」
凛は深呼吸をし、静かに言った。
「あなたの内側で何が起きているのか、一緒に探ってみませんか?」
美雪は突然、冷静な表情になった。
「どうやって?」
「私には特別な方法があります。あなたの心の中に入り、一緒に問題の根源を探ることができるのです」
美雪は驚いた表情を見せたが、すぐにまた泣き始めた。
「面白そうですね! やってみましょう!」
その声は興奮に満ちていたが、美雪の涙は止まらなかった。
凛は紫苑と目を合わせ、小さく頷いた。
「では、目を閉じて、深呼吸をしてください。私があなたの手を取ります」
美雪は言われた通りに目を閉じ、凛も同様に目を閉じた。凛が美雪の手を優しく握ると、二人の意識は徐々に美雪の内面世界へと沈んでいった。
凛が目を開けると、そこは奇妙な遊園地のような空間だった。しかし、その遊園地は常識を超えた不思議な光景を呈していた。
メリーゴーラウンドは上下逆さまになって回転し、ジェットコースターは地面を這うように進んでいる。観覧車は横に倒れ、そのままゆっくりと回転していた。
空には、笑顔と泣き顔が交互に浮かぶ奇妙な月が浮かんでいた。
「ここが……美雪さんの心の中なのね」
凛はつぶやいた。美雪の姿を探すと、彼女はすぐ近くに立っていた。しかし、その姿は現実世界とは少し違っていた。顔の左半分は笑顔で、右半分は泣き顔だった。
「先生、ここは何なんでしょう?」
美雪の声は混乱と不安に満ちていた。
「あなたの心を映し出す場所よ、美雪さん。ここで、あなたの感情の混乱の原因を探っていきましょう」
凛は美雪の手を取り、遊園地を歩き始めた。
「紫苑、聞こえる?」
凛は心の中で呼びかけた。
「はい、凛先生。美雪さんのバイタルサインは安定しています。でも、脳波に少し乱れが見られます」
凛は安堵しつつも、警戒を怠らなかった。
二人が歩を進めると、突然、道が分岐した。左の道には「喜び」、右の道には「悲しみ」と書かれた看板があった。しかし、不思議なことに「喜び」の道からは悲しげな音楽が聞こえ、「悲しみ」の道からは楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「どちらの道に行きたいですか?」
凛は美雪に尋ねた。
美雪は混乱した表情で両方の道を見比べた。
「分かりません。どちらも私の気持ちのようで、でも違うような……」
凛は美雪の肩に手を置いた。
「一緒に両方を見てみましょう」
二人は「喜び」の道を進んだ。そこには美雪の楽しい思い出が映し出されていたが、不思議なことにそれらの映像は全て上下逆さまだった。家族との楽しい食事の映像、友人との旅行の思い出、すべてが逆さまに映し出されている。
「これらは、あなたの幸せな思い出ね。でも、なぜか逆さまになっている」
美雪は映像を見つめ、突然泣き出した。
「私、この時は本当は悲しかったんです。でも、みんなが喜んでいるから、私も喜ばなきゃいけないって……」
凛は美雪の言葉に深い意味を感じ取った。
「あなたは自分の本当の感情を押し殺してきたのね」
次に二人は「悲しみ」の道へ向かった。そこでは美雪の辛い記憶が映し出されていたが、それらの映像はすべて明るい色彩で彩られ、陽気な音楽が流れていた。
美雪は映像を見て、大声で笑い始めた。しかし、その目からは涙が溢れ出ていた。
「私、悲しい時に笑うしかなかったんです。泣いたら、周りの人も悲しむし、困るから……」
凛は美雪の手をしっかりと握った。
「美雪さん、あなたは長い間、自分の感情を正直に表現することを恐れてきたのね」
美雪はゆっくりと頷いた。その瞬間、遊園地全体が揺れ始めた。
「凛先生!」
紫苑の声が響いた。
「美雪さんの脳波が急激に変化しています!」
凛は美雪をしっかりと抱きしめた。
「大丈夫よ、美雪さん。あなたの本当の感情を受け入れていきましょう」
美雪の体が震え始め、突然、大声で泣き始めた。それは、長年抑圧してきた本当の感情の噴出だった。
美雪の涙と共に、遊園地の風景が大きく変化し始めた。逆さまだったメリーゴーラウンドが正しい向きに戻り、地を這っていたジェットコースターが空高く伸び始めた。横倒しだった観覧車も、ゆっくりと起き上がっていく。
凛は美雪を優しく抱きしめたまま、その変化を静かに見守った。
「そうよ、美雪さん。自分の感情を素直に表現していいの」
美雪の泣き声が次第に和らぎ、深いため息に変わっていった。彼女が顔を上げると、左右で分かれていた表情が一つに統合されていた。
「先生……私、こんなにすっきりしたのは生まれて初めてです」
凛は優しく微笑んだ。
「あなたの中で、感情と表現が一致し始めているのよ」
二人の周りでは、遊園地の風景がさらに変化を続けていた。「喜び」と「悲しみ」の道が交差し、新たな道が形成され始める。その道には「素直な気持ち」という看板が立っていた。
「美雪さん、この新しい道を一緒に歩いてみましょう」
凛は美雪の手を取り、新しい道を進み始めた。その道すがら、美雪の人生の様々な場面が映し出される。しかし今度は、それぞれの場面で美雪が素直に感情を表現している姿が見られた。
悲しい出来事では泣き、嬉しい出来事では笑う。怒りを感じる場面では、健全な形で怒りを表現している。
美雪は目を輝かせてそれらの映像を見つめていた。
「こんな風に生きていいんですね……!」
「ええ、これがあなたの本来の姿よ。感情を抑圧するのではなく、適切に表現することが大切なの」
遊園地の空に浮かんでいた月も、笑顔と泣き顔が交互に現れるのではなく、穏やかな表情で輝いていた。
凛は美雪の変化を確認しながら、紫苑に心の中で語りかけた。
「紫苑、美雪さんの状態はどう?」
「凛先生、美雪さんの脳波が安定してきました。心拍数も落ち着いています」
凛は安堵の表情を浮かべた。
「美雪さん、現実の世界に戻る準備はできた?」
美雪は少し躊躇したが、やがて決意を込めて頷いた。
「はい、先生。私、頑張ってみます」
凛は美雪の手をしっかりと握り、現実世界への帰還を始めた。
目を開けると、二人は再び診察室にいた。美雪の表情は穏やかで、目には新たな光が宿っていた。
「どうかしら、美雪さん?」
美雪は深呼吸をし、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「先生、私……怖いです。でも、同時にやってみたいという気持ちもあります」
その言葉に、感情と表現の一致を感じ取った凛は、優しく微笑んだ。
「その気持ち、とても自然で健康的よ。これからは一緒に、あなたの感情を適切に表現する方法を練習していきましょう」
美雪は涙ぐみながら頷いた。凛は彼女の肩に手を置き、静かに語りかけた。
「感情は、心という楽器が奏でる音楽のようなものよ。時に不協和音があっても、それもまた美しい人生の旋律の一部。大切なのは、その音楽を素直に、そして適切に表現すること。美雪さん、あなたの人生という交響曲を、これからは自信を持って奏でていきましょう」
美雪の目に、新たな希望の光が宿った。それは、彼女の人生の新たな章の始まりを告げているようだった。
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