第24話:「無音の世界に響く心の歌」
蒼井凛は、診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。凛は、母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスを無意識に指で弄びながら、深い思考に沈んでいた。
美園紫苑がノックをして部屋に入ってきた。彼女の手には、次の患者のファイルが握られていた。
「凛先生、次の患者さんの資料です」
凛は紫苑の方を向き、微笑んだ。
「ありがとう、紫苑。一緒に見てみましょう」
二人は診察室の中央にある小さなテーブルに向かい、互いに向かい合って座った。凛はファイルを開き、内容を確認し始めた。
「高橋真琴さん、28歳女性。主訴は選択性緘黙症ね」
紫苑は静かに頷いた。
「はい。特に職場での状況が深刻のようです。一切言葉を発することができず、キャリアに支障をきたしているとのことです」
凛は眉をひそめ、ファイルをさらに読み進めた。
「幼少期のトラウマが原因かもしれないわね」
紫苑は真剣な表情で凛を見つめた。
「凛先生、今回も先生の能力を使う必要がありそうですね」
凛は深く息を吸い、決意を固めた表情で紫苑を見返した。
「ええ、そうね。真琴さんの心の奥深くにある問題を探る必要がありそうよ。でも、紫苑。勿論あなたのサポートが必要ですからよろしくね」
紫苑は凛の言葉に、強い決意を込めて応えた。
「もちろんです。私にできることは何でもします」
凛は微笑み、紫苑の手を軽く握った。
「ありがとう。では、治療の方針を立てましょう。まず、真琴さんとの信頼関係を築くことが重要ね。それから、徐々に彼女の心の中に入っていく。恐らく、彼女の内面世界は複雑で繊細なものになっているはずよ」
紫苑は頷きながら、メモを取り始めた。
「分かりました。私は外部からバイタルサインをモニタリングし、何か異常があればすぐに報告します」
凛は満足げに頷いた。
「そうね。それと、私が真琴さんの心の中にいる間、外部との連絡役になってほしいの。何か緊急事態が起きたら、すぐに私を呼び戻して」
「承知しました」
二人は互いに目を見合わせ、静かに頷き合った。その瞬間、診察室のドアがノックされ、看護師が顔を覗かせた。
「先生、高橋さんがいらっしゃいました」
凛は立ち上がり、深呼吸をした。
「分かったわ。案内してください」
紫苑も立ち上がり、凛の隣に立った。
「頑張りましょう、凛先生」
凛は紫苑に微笑みかけ、ドアの方を向いた。そして、高橋真琴が部屋に入ってきた。
真琴は、淡いブルーのブラウスにグレーのスカートを身につけ、首元には小さな真珠のペンダントが揺れていた。彼女の表情は緊張に満ちており、目は絶えず部屋の中を漂っていた。
「高橋さん、こんにちは。私が担当医の蒼井凛です。こちらは看護師の美園紫苑です」
凛は優しく微笑みかけ、真琴はそれに小さく頷いた。
「うう……あぁ……うぅ……」
真琴は苦し気に言葉を発そうとし始めた。しかし呼気は言葉の形を成さず、ただ空中に虚しく消えるのみだった。
「高橋さん、無理をしないでも大丈夫です」
凛は真琴をソファに案内し、自身も向かい側に座った。紫苑は部屋の隅に控えた。
「まず、リラックスしてくださいね。ここはあなたが安心できる場所です」
凛はゆっくりと話し始めた。真琴の表情を注意深く観察しながら、彼女の緊張をほぐそうと試みる。
「今日は、あなたの気持ちをゆっくりと聞かせていただきたいと思います。話せないなら、筆談やジェスチャーでも構いません。あなたのペースでゆっくり進めていきましょう」
真琴は少し安堵したような表情を見せ、小さく頷いた。凛は穏やかな笑顔を浮かべ、真琴の心を開くための扉を、ゆっくりと叩き始めた。
凛は真琴の反応を慎重に観察しながら、ゆっくりと話を進めていった。
「高橋さん、まずはあなたの日常生活について教えてもらえますか? 例えば、お仕事の様子とか」
真琴は躊躇いがちに、メモ帳を取り出し、ペンを握った。しばらくの沈黙の後、彼女は何かを書き始めた。凛は辛抱強く待った。
真琴がメモ帳を差し出すと、そこには小さな文字で「仕事では全く話せません。同僚とのコミュニケーションが取れず、孤立しています」と書かれていた。
凛は深く頷いた。
「そうですか。辛い思いをされているのですね」
真琴の目に、かすかに涙が光った。
凛は静かに続けた。
「高橋さん、特殊な催眠療法であなたの心の中を一緒に探検してみませんか? それによって、あなたの抱えている問題の根源が見えてくるかもしれません」
真琴は驚いた表情を見せたが、すぐに興味深そうに頷いた。
凛は紫苑に目配せし、準備を整えた。
「では、目を閉じて、深呼吸をしてください。私があなたの手を取ります。そうすることで、私たちは一緒にあなたの心の中に入っていけるのです」
真琴は言われた通りに目を閉じ、凛も同様に目を閉じた。凛が真琴の手を優しく握ると、二人の意識は徐々に真琴の内面世界へと沈んでいった。
目を開けると、そこは巨大な音楽ホールだった。しかし、ホールは完全な静寂に包まれている。ステージには一台のピアノがあるが、鍵盤が全て外されていた。ホールの壁には無数の楽譜が貼られているが、全ての音符が消え去っていた。
凛は驚きを隠せない真琴の顔を見た。
「ここがあなたの心の中です。高橋真琴さん」
真琴は口を開いたが、音が出ない。彼女は困惑した表情で凛を見つめた。
凛は優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。ここではあなたの思いが直接私に伝わります。言葉を発する必要はないの」
真琴の声が、凛の心に直接響いた。
「ここが……私の心の中なんですか?」
「そうよ。このホールは、あなたの内なる世界を表しているの。静寂の中に、きっと美しい音楽が眠っているはず。一緒に、その音楽を見つけていきましょう」
凛は真琴の手を取り、ゆっくりとステージに向かって歩き始めた。
「紫苑、聞こえる?」
凛は心の中で呼びかけた。
「はい、凛先生。真琴さんのバイタルサインは安定しています」
紫苑の声が返ってきた。
凛は安堵し、真琴に向き直った。
「さあ、あなたの心の音楽を探しに行きましょう」
二人は、静寂に包まれたホールを歩き始めた。その一歩一歩が、真琴の心の奥底に眠る記憶と感情を呼び覚ます旅の始まりだった。
凛と真琴は、静寂に包まれたホールをゆっくりと歩いていった。壁に貼られた無数の楽譜に近づくと、凛は一枚の楽譜に手を伸ばした。
「この楽譜、何か特別な意味があるのかしら?」
真琴の声が凛の心に響く。「それは……私が小学校の時の学芸会の曲です」
凛が楽譜に触れると、突如としてホールに映像が浮かび上がった。小さな真琴が舞台に立ち、歌い始める姿が見える。しかし、途中で観客から厳しい声が上がり始めた。
「下手くそ!」「音程が外れてる!」
映像の中の真琴は固まり、声が出なくなってしまう。現在の真琴も震え始めた。
凛は真琴の肩に手を置いた。
「大丈夫よ。これは過去の記憶。今のあなたは安全なの」
真琴は少し落ち着きを取り戻した。
「真琴さん、この時のあなたの気持ちを教えてくれる?」
真琴は躊躇したが、やがて言葉を紡ぎ始めた。
「怖かった……恥ずかしかった……もう二度と人前で歌いたくないと思いました」
真琴が気持ちを言葉にするにつれ、楽譜に少しずつ音符が現れ始めた。
凛は優しく微笑んだ。
「よく言えたわ。あなたの気持ちを言葉にすることで、失われていた音符が戻ってきたのよ」
二人はさらにホールを進み、ステージ上のピアノに近づいた。
「このピアノは、きっとあなた自身を表しているのね」
凛は言った。
「鍵盤が外されているのは、あなたが自分の声を失ってしまったことを意味しているのかもしれない」
真琴は震える手でピアノに触れた。
「どうすれば……元に戻りますか?」
「あなたの中にある、幸せな思い出を思い出してみて」
凛は促した。
真琴は目を閉じ、懸命に考え始めた。すると、ホールに新たな映像が浮かび上がる。家族や友人と笑顔で過ごす真琴の姿。楽しそうにおしゃべりをする様子。
映像が現れるたびに、ピアノの鍵盤が一つずつ戻っていく。
「見て、真琴さん!」
凛は嬉しそうに言った。
「あなたの中には、たくさんの素敵な思い出があるのよ」
真琴の目に涙が光った。
「私……話せるんですね、ここでは」
「そうよ」
凛は頷いた。
「あなたの中には、まだ歌いたい気持ちがあるのね」
凛は真琴の手を取り、ピアノの前に座らせた。
「最後に、今のあなたの気持ちを歌にしてみない? どんな歌でも構わないわ」
真琴は深呼吸をし、震える指でピアノの鍵盤に触れた。その指先には、長年抑圧してきた感情の重みが感じられた。凛は、真琴の横に立ち、静かに見守っていた。
真琴は目を閉じ、小さな声で歌い始めた。最初の音は、かすかに震え、不安定だった。まるで、長い沈黙を破る最初の一滴のように、おずおずと空間に滲み出ていく。
「心の奥底に眠る 言葉たちよ……」
その歌詞は、真琴の内なる思いを映し出すかのようだった。声は小さいながらも、確かな存在感を持って響き渡る。
徐々に、真琴の声は力強さを増していった。震えは次第に消え、代わりに芯の通った響きが生まれ始める。ピアノの音色が、真琴の声に寄り添うように美しく広がっていく。
「閉ざされた扉を 今こそ開こう」
真琴の歌声が高らかに響き渡り始めた。その瞬間、驚くべき変化が起こり始める。
ホールの壁が、まるで生命を宿したかのように輝き始めたのだ。最初は小さな光の粒が、星屑のように壁面に浮かび上がる。それらは次第に大きくなり、明るさを増していく。
天井もまた、光の渦に包まれ始めた。無数の光の筋が、まるで天の川のように広がっていく。ホール全体が、壮大な宇宙のように変貌を遂げていった。
「恐れを越えて 歩み出す勇気」
真琴の声が最高潮に達すると、ピアノから眩い光が放たれた。その光は、外されていた鍵盤を呼び戻すかのように、ピアノの形を完全に復元していく。真琴自身も、歌うにつれて輝きを増していった。彼女の周りには、金色の光のオーラが漂い、その姿は歌の女神のように神々しかった。
歌が最後の音を迎えると、ホール全体が温かな光に包まれた。真琴はゆっくりと目を開け、涙が頬を伝うのを感じた。しかし、それは悲しみの涙ではなく、喜びと解放感に満ちた涙だった。
彼女の表情には、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。長年閉ざされていた心の扉が開き、自分の声を取り戻した喜びが、その笑顔に溢れていた。
凛は、深い感動を覚えながら真琴を見つめていた。この瞬間、真琴の心の中で大きな変化が起きたことを、凛は確信していた。
真琴は涙を流しながらも、晴れやかな表情を浮かべていた。
「私……歌えました」
凛は優しく微笑んだ。
「ええ、素晴らしい歌声だったわ」
そして、凛は真琴の手を取り、現実世界への帰還を始めた。
目を開けると、二人は再び診察室にいた。真琴の頬には涙の跡があったが、その表情は穏やかだった。
そして、真琴は小さな声で言った。「ありがとうございました、先生」
凛は驚きと喜びを隠せない表情で真琴を見つめ、こう言った。
「言葉は、心の音楽なのよ。時に恐ろしく、時に美しい。でも、それを奏でる勇気さえあれば、あなたの心のメロディは、きっと誰かの心に届くわ。さあ、あなたの新しい曲を、世界に向けて奏でていきましょう」
真琴は涙ながらに頷き、新たな一歩を踏み出す決意を固めたのだった。
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