第19話:「一人の世界、万華鏡の心」
蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。首元でさりげなく輝くティファニーのオープンハートネックレスが、朝の光を受けて煌めいていた。
ノックの音が静寂を破った。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女はペールブルーのナース服を身にまとい、耳元には小さなパールピアスが控えめに光っていた。
「おはようございます、凛先生。次の患者さんの資料です」
紫苑はクリップボードを凛に手渡した。
「ありがとう、紫苑」
凛は資料に目を通し始めた。その瞳に、次第に深い思慮の色が宿っていく。
「城内碧さん……27歳。自己と他者の境界が曖昧で、世界中の人間が自分自身だと感じているのね」
紫苑は少し躊躇いながら口を開いた。
「はい。特に気になるのは、鏡を見るたびに違う人の顔が映ると訴えていることです。社会生活にも支障をきたしているようです」
凛は眉をひそめ、深く考え込んだ。
「アイデンティティの混乱か……。これは難しいケースになりそうね」
紫苑は凛の表情を窺いながら、慎重に言葉を選んだ。
「凛先生、この患者さんの場合、通常の治療法では対応が難しいかもしれません。先生の……特別な方法が必要になるかもしれませんね」
凛は紫苑の言葉に小さく頷いた。二人の間には、凛の特殊な能力についての暗黙の了解があった。
「そうね。でも、まずは通常の方法で試みてみるわ。それでも改善が見られなければ……」
凛の言葉は宙に浮いたまま、診察室に静寂が広がった。
紫苑はその沈黙を破るように、優しく微笑んだ。
「先生、私にできることがあれば何でも言ってください。一緒に城内さんを助けましょう」
凛は紫苑の言葉に心を打たれ、感謝の笑みを返した。
「ありがとう、紫苑。あなたがいてくれて本当に心強いわ」
二人は互いに頷き合い、これから始まる治療への覚悟を決めた。
凛は窓際から離れ、診察台に腰掛けた。その仕草には、いつもの優雅さの中に、わずかな緊張が滲んでいた。
「紫苑、患者さんをお呼びして」
紫苑はうなずき、部屋を出ていった。凛は深呼吸をし、心を落ち着かせる。ディオールのリップグロスで唇を整えながら、彼女は自分の能力の限界について考えを巡らせていた。
(自己と他者の境界が曖昧な患者さん……。私の能力で、どこまで助けられるかしら)
そんな思いを胸に、凛は城内碧を迎える準備を整えた。
しばらくして、ノックの音が再び響いた。
「どうぞ」
凛の声に応えるように、ドアが開いた。
そこには、どこか不安げな表情の若い女性が立っていた。城内碧は、パステルグリーンのワンピースを身にまとい、首元には小さな水晶のペンダントが揺れていた。しかし、その装いとは裏腹に、彼女の目は落ち着きなく部屋中を彷徨っていた。
「城内碧さんですね。私が担当医の蒼井凛です」
凛は穏やかな笑顔で碧を迎えた。
「は、はい……よろしくお願いします」
碧の声は、か細く、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
「こちらへどうぞ」
凛は碧をソファに案内した。紫苑は静かに部屋の隅へ下がり、準備を始めた。
「碧さん、まずはあなたの状況について教えていただけますか?」
碧は落ち着かない様子で、部屋中を見回しながら口を開いた。
「私……私は……。鏡を見るたびに、違う人の顔が映るんです。でも、それは全部私なんです。私は……世界中の人間が私自身なんです」
凛は碧の言葉に、深い共感と懸念を感じた。
「そうですか。それは大変な経験ですね。具体的に、日常生活でどのような困難を感じていますか?」
碧は震える手でワンピースの裾を掴みながら、言葉を絞り出すように話し始めた。
「人と会話するのが怖いんです。相手の顔が次々と変わって……。でも、その全てが私自身だと感じてしまって……。仕事も、友人との付き合いも、全てが難しくなってしまいました」
凛は碧の言葉に静かに頷きながら、彼女の内面で起きていることを分析し始めた。
(自己と他者の境界が完全に崩れている……。これは単なる妄想ではなく、深刻なアイデンティティの混乱ね)
「碧さん、あなたの体験を理解しようと努めています。これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中してくださいね」
碧は言われるままに目を閉じた。その長いまつげが、頬に影を落としている。
凛は静かに碧の手を取った。その瞬間、彼女の意識は碧の心の中へと沈んでいった。
周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。
凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。
無数の鏡が林立する巨大な迷宮。それぞれの鏡には様々な人々の顔が映し出されており、それらが絶え間なく変化している。鏡の表面は波打つように揺らめき、映し出される顔が次々と入れ替わっていく。
凛は慎重に歩を進めながら、状況を分析し始めた。
(この鏡の迷宮は、碧さんのアイデンティティの混乱を表しているのね。鏡の数の多さは、彼女が他者の存在を強く意識していることの表れかもしれない)
凛は立ち止まり、近くの鏡をじっと見つめた。そこには老婆の顔が映っていたが、瞬く間に若い男性の顔に変わり、次には小さな女の子の顔へと変化していく。
(鏡像の絶え間ない変化は、碧さんが自己と他者の境界を曖昧に感じていることを示しているわ。彼女の中で、個々のアイデンティティが固定されていない)
凛は深く息を吸い、決意を固めた。
「碧さん、聞こえますか?」
凛の声が迷宮に響き渡る。すると、鏡の表面がさざ波のように揺れ動いた。
「は、はい……聞こえます」
碧の声が、どこからともなく聞こえてきた。
「碧さん、あなたの周りに見えるものを教えてください」
「鏡……たくさんの鏡です。そこに映る顔が、次々と変わっていきます」
凛は静かに頷いた。
「そうですね。では、これから一緒にそれぞれの鏡を見ていきましょう。各々の鏡に映る顔に、名前をつけてみてください」
「え? でも、それは全部私です……」
「そうかもしれません。でも、一旦それぞれを別の存在だと考えてみましょう。どんな名前が浮かびますか?」
碧は戸惑いながらも、凛の指示に従い始めた。
「この鏡は……佐藤さん。隣は田中君。そして、こちらは山田おばあさん……」
碧が名前をつけていくたびに、鏡の表面がより安定していく様子が見て取れた。
(良い兆候ね。碧さんが他者の存在を認識し始めている)
「素晴らしいわ、碧さん。では次に、それぞれの人物の特徴や個性を想像してみましょう」
「佐藤さんは……優しくて、料理が得意。田中君は元気で、スポーツが好き。山田おばあさんは知恵袋で、昔話をよくしてくれる……」
碧が語るにつれ、鏡に映る顔がよりはっきりとし、個性的になっていった。同時に、迷宮の雰囲気も少しずつ変化し始めた。
凛は満足げに微笑んだ。
「すばらしい進歩です、碧さん。あなたは他者の存在を理解し始めています。それぞれが独自の個性を持つ、別の存在だということが分かりますか?」
「はい……少しずつですが、分かってきます」
その時、迷宮の中央に一枚の大きな鏡が現れた。凛は碧を促し、その鏡の前に立った。
「碧さん、この鏡を見てください。そこに映っているのは誰ですか?」
碧は恐る恐る鏡を覗き込んだ。
「これは……私?」
「そうです、碧さん。それがあなた自身です。あなたの特徴や個性を教えてください」
碧は躊躇いながらも、少しずつ自分自身について語り始めた。
「私は……絵を描くのが好きで、少し内向的。でも、親しい人とはよくおしゃべりをします。そして……」
碧が自己認識を深めていくにつれ、迷宮全体が変化し始めた。無数の鏡が一つに融合し、巨大な万華鏡へと姿を変えていく。
万華鏡の中心には碧の姿が映し出され、その周りを様々な人々の顔が彩っていた。それぞれの顔は個性的でありながら、全体として美しい調和を成していた。
「碧さん、見てください。この万華鏡が、あなたの新しい世界観を表しています」
碧は驚きと喜びの混ざった表情で、万華鏡を見つめた。
「私は……一人の個人で、でも同時に世界中の人々とつながっている……?」
「そうです。あなたは独自の存在でありながら、他者との繋がりも持っているのです」
凛の言葉が、万華鏡の中に響き渡る。碧の表情が、徐々に穏やかになっていく。
「ありがとうございます、先生。少し……理解できた気がします……」
その瞬間、凛の意識が現実世界へと引き戻されていった。万華鏡の光景が徐々に薄れ、診察室の姿が浮かび上がってくる。
目を開けると、診察室の光景が広がっていた。碧もまた、ゆっくりと目を開けた。
「どうでしたか、碧さん?」
碧の顔に、これまでとは違う表情が浮かんだ。混乱と不安の色が薄れ、代わりに穏やかな光が宿っている。
「先生……不思議な体験でした。でも、少し自分が分かった気がします」
凛は満足げに頷いた。
「良かった。これからは、自分自身を一人の個人として認識しつつ、他者との繋がりも大切にしてください」
碧は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。私……これからは自分と向き合いながら、他の人々とも関わっていきます」
診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。凛は自身も何か大切なことを学んだような気がしていた。
碧が退室した後、紫苑が凛に近づいてきた。
「凛先生、本当にお疲れ様でした。城内さんの様子が、見違えるように変わりましたね」
凛は紫苑に向かって安堵の笑みを浮かべた。
「ありがとう、紫苑。確かに難しいケースだったわ。でも、碧さんの中にある自己認識と他者理解の力が、最後には彼女を救ったのよ」
「そうですね。でも、凛先生。治療中、一瞬だけ先生の表情が苦しそうに見えました。大丈夫でしたか?」
凛は少し驚いた様子で紫苑を見つめた。自分の動揺が紫苑に伝わっていたとは思わなかった。
「さすが紫苑ね。実は……碧さんの心の中で、自分自身を見失いそうになったの。他者と自己の境界があまりにも曖昧で、私自身もその渦に巻き込まれそうになったわ」
紫苑は凛の腕に優しく手を置いた。
「凛先生、患者さんの心に寄り添うあまり、自分を見失わないでくださいね」
凛は紫苑の言葉に深く頷いた。
「ありがとう、紫苑。あなたの存在が、私の心の支えになっているわ」
二人は窓の外を見やりながら、静かに言葉を交わした。
「私たちは皆、独立した個人でありながら、他者と深く繋がっている。その両方を受け入れることで、真の調和が生まれるのよ」
凛の言葉が、診察室に静かに響いた。外の世界は、今まで以上に鮮やかに輝いて見えた。
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