第18話:「怒りの鎧の中で」


 蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。首元でさりげなく輝くティファニーのオープンハートネックレスが、朝の光を受けて煌めいていた。


 ノックの音が静寂を破った。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。彼女はサックスブルーのナース服を身にまとい、耳元にはミキモトのパールのスタッドピアスが控えめに光っていた。


「おはようございます、凛先生。次の患者さんの資料です」


 紫苑はクリップボードを凛に手渡した。


「ありがとう、紫苑」


 凛は資料に目を通し始めた。その瞳に、次第に深い思慮の色が宿っていく。


「鷹山勇一さん……42歳。若年性アルツハイマー型認知症か。難しいケースになりそうね」


 紫苑は少し躊躇いながら口を開いた。


「はい。特に厄介なのは、鷹山さんが自分の病気を認めようとしないことです。周囲に対して強い怒りを示しているようです」


 凛は眉をひそめ、深く考え込んだ。


「認知症の初期段階では、そういった反応はよくあるわね。自分の能力の低下を認めたくない気持ちの裏返しかもしれない」


 紫苑は凛の言葉に頷きながら、さらに付け加えた。


「家族の方によると、以前は優しくて家族思いの方だったそうです。この急激な性格の変化に、皆さん戸惑っているようです」


 凛は資料から顔を上げ、紫苑と視線を合わせた。


「紫苑、この患者さんへのアプローチ、どう思う?」


 紫苑は少し考え込んだ後、静かに口を開いた。


「まず、鷹山さんの怒りの根源にある恐怖や不安を理解することが大切だと思います。そして、彼の残存能力に焦点を当て、自尊心を保ちながら病気と向き合える環境を作ることが重要かもしれません」


 凛は紫苑の意見に頷きながら、さらに深く考え込んだ。


「そうね。怒りの裏にある感情を探り、彼自身が自分の状況を受け入れられるようサポートすることが必要ね。私の……特殊な方法で、彼の心の奥底にあるものを探ってみるわ」


 紫苑は凛の言葉に小さく頷いた。彼女は凛の特殊な能力について薄々気づいているが、決して口には出さない。それが二人の暗黙の了解だった。


「凛先生、一つ気になることがあります」


「何かしら?」


「鷹山さんの怒りが、治療中に爆発する可能性はないでしょうか? もし万が一のことがあれば……」


 凛は紫苑の懸念を理解し、優しく微笑んだ。


「心配してくれてありがとう、紫苑。確かにリスクはあるわ。でも、私たちにできることをするだけよ。万が一の場合は、すぐに介入してね」


「はい、分かりました」


 二人は互いに頷き合い、これから始まる治療への覚悟を決めた。


 凛は窓際から離れ、診察台に腰掛けた。その仕草には、いつもの優雅さの中に、わずかな緊張が滲んでいた。


「紫苑、患者さんをお呼びして」


 紫苑はうなずき、部屋を出ていった。凛は深呼吸をし、心を落ち着かせる。ディオールのリップグロスで唇を整えながら、彼女は自分の能力の限界について考えを巡らせていた。


(認知症患者の心の中に入るのは初めて……。どんな世界が広がっているのかしら)


 そんな思いを胸に、凛は鷹山勇一を迎える準備を整えた。


 しばらくして、ノックの音が再び響いた。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、ドアが開いた。


 そこには、一見すると普通のビジネスマンに見える中年男性が立っていた。しかし、その目には激しい怒りの炎が燃えていた。鷹山勇一は、グレーのスーツに身を包み、首元にはエルメスのネクタイが巻かれていた。その装いは整っているものの、襟元が少し歪んでいるのが気になった。


「鷹山勇一さんですね。私が担当医の蒼井凛です」


 凛は穏やかな笑顔で勇一を迎えた。


「何だ、こんな小娘が医者か!」


 勇一の声には、明らかな敵意が込められていた。凛は一瞬たじろいだが、すぐに冷静さを取り戻した。


「鷹山さん、どうぞこちらへ」


 凛は勇一をソファに案内した。紫苑は静かに部屋の隅へ下がり、いつでも介入できる態勢を整えた。


「俺は何も悪くない! みんなが俺をおかしいとか言うから、腹が立つんだ!」


 勇一は座るなり、大声で怒鳴り始めた。その目には、怒りの奥に潜む深い恐怖と不安が垣間見えた。


 凛は冷静に、しかし優しく語りかけた。


「鷹山さん、あなたの気持ちはよく分かります。周りから理解されないのは、とても辛いことですよね」


 勇一は一瞬、言葉に詰まった。凛の共感的な態度に、彼の怒りが少し和らいだようだった。


「そうだ……。俺は何も変わっていないのに、みんなが俺を変な目で見るんだ」


 凛はうなずきながら、さらに続けた。


「鷹山さん、これからあなたの気持ちをもっと深く理解するために、特別な方法を試してみたいと思います。これから催眠療法を行って、あなたの心のトラウマを解明していきます。目を閉じて、深呼吸をしてください。私の声に集中してください」


 勇一は少し戸惑ったが、凛の穏やかな雰囲気に少しずつ心を開いているようだった。


「分かった……。試すだけは、試してみよう」


 勇一は言われるままに目を閉じた。その表情には、怒りの下に隠された不安と恐れが浮かんでいた。


 凛は静かに勇一の手を取った。その瞬間、彼女の意識は勇一の心の中へと沈んでいった。


 周囲の景色が溶けていき、新たな世界が広がり始める……。


 凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。


 果てしなく広がる砂漠。しかし、その砂は通常の砂ではなく、無数の文字や数字、記憶の断片が書かれた紙切れだった。砂漠の中央には、巨大な砂時計が立っていた。その上部には、まだ多くの砂(紙切れ)が残っているが、下部にも相当量の砂が溜まっていた。


 凛は冷静に状況を分析し始めた。


(この砂漠は、勇一さんの記憶を表しているのね。砂時計は、失われていく記憶と残っている記憶を象徴しているのかもしれない)


 凛は慎重に歩を進めた。足元の紙切れを拾い上げると、そこには勇一の記憶の断片が書かれていた。仕事での成功、家族との楽しい時間、友人との語らい……。


 突然、激しい砂嵐が起こった。紙切れが空中を舞い、凛の視界を遮る。


「何だ! 俺の記憶を勝手に見るな!」


 勇一の怒鳴り声が、砂嵐と共に響き渡った。


 凛は落ち着いて声を上げた。


「勇一さん、大丈夫です。私はあなたを理解するために来たの。怖がる必要はありません」


 砂嵐が少し和らいだ。凛は砂時計に近づいた。


「この砂時計は、あなたの記憶と時間を表しているのね。上の砂は、まだあなたの中に残っている記憶。下の砂は……」


「忘れてしまった記憶か」


 勇一の声が、静かに響いた。その声には、怒りよりも深い悲しみが滲んでいた。


 凛は優しく語りかけた。


「勇一さん、記憶が少しずつ失われていくのは怖いことです。でも、見てください。まだたくさんの砂が上に残っています。そして、下に落ちた砂も消えてなくなったわけではありません。形を変えて、あなたの一部として存在し続けているのです」


 勇一の姿が、砂時計の前に現れた。彼の目には、怒りの代わりに深い悲しみと恐れが浮かんでいた。


 砂漠の中央に聳える巨大な砂時計の前で、勇一の姿がおぼろげながら現れた。彼の目は、今まで見せていた怒りの炎とは打って変わって、深い悲しみと恐怖に満ちていた。砂時計の下部に溜まっていく砂??失われていく記憶を象徴するかのように、勇一の姿もどこか透明感を帯びていた。


「でも、俺は……このまま全てを忘れてしまうんじゃないか?」


 勇一の声は震え、その言葉は砂漠の空間に響き渡った。その瞬間、砂時計の砂が一気に落下するかのような錯覚を凛は覚えた。


 凛は静かに歩み寄り、おずおずとしながらも、優しく勇一の肩に手を置いた。その手の温もりが、徐々に勇一の存在をより確かなものにしていくようだった。


「そうかもしれません。でも、忘れたとしても、あなたはあなたのままです」


 凛の声は柔らかく、しかし力強かった。彼女の瞳には、深い共感と決意が宿っていた。


「大切なのは、今この瞬間を生きること。そして、周りの人々との絆を大切にすることです」


 凛の言葉が、砂漠の空気を震わせた。すると不思議なことに、足元の砂??紙切れとなった記憶の断片が、かすかに光を放ち始めた。


 勇一の目に、大粒の涙が浮かんだ。その涙は、頬を伝って砂漠に落ち、小さな水たまりを作った。水たまりには、彼の大切な記憶が映し出されていた。家族との笑顔、仕事での成功、友人との語らい――それらが揺らめき、次第に溶けていくように見えた。


「俺は……怖かったんだ。自分が自分でなくなることが」


 その言葉と共に、勇一の感情の堤防が決壊した。

 突如、彼は子供のように激しく泣き崩れ始めた。


 その姿は、長年の社会人としての仮面を脱ぎ捨て、純粋な恐怖と悲しみにさらされた魂そのものだった。


「うわああああああ!」


 勇一の叫びが砂漠に響き渡る。

 彼は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。

 指の隙間からは止めどもなく涙が溢れ出ていた。


 凛は驚きつつも、優しく勇一に寄り添った。

 すると、勇一は突然、凛に縋りついた。

 その仕草は、まるで溺れる者が最後の藁にすがるかのようだった。


「怖かったんだ! 怖かったんだ!」


 勇一の声は絶叫に近かった。

 その叫びは、砂漠の風景さえも揺るがすほどの激しさだった。


「俺が、どんどん俺でなくなっていくことが……! 記憶が……どんどん失われていくことが!」


 彼の体は激しく震え、凛のシャツを強く掴む手には、全ての不安と恐怖が込められているようだった。涙と鼻水で顔を濡らしながら、勇一は泣き続けた。


 凛は黙って、勇一の背中をさすった。その手の温もりが、少しずつ勇一の激しい感情を和らげていくようだった。


 砂漠の風景も、勇一の感情に呼応するかのように変化していった。砂嵐が再び起こり、紙切れとなった記憶の断片が舞い上がる。しかし今度は、それらが完全に消えてしまうのではなく、新たな形を作り始めた。記憶の断片が寄り集まり、勇一と彼の大切な人々を表す像を形作っていく。


 勇一の泣き声が、少しずつ和らいでいった。彼の体の震えも、徐々に収まっていく。凛は静かに、しかし力強く勇一を抱きしめた。


「大丈夫よ、勇一さん。その恐怖を感じることも、泣くことも、全て大切なプロセスなの。あなたはあなたのままよ。記憶が薄れても、こうして感じ、泣き、そして立ち上がる勇気を持っているあなたは、永遠にあなたなの」


 凛の言葉が、勇一の心に染み渡っていく。砂漠に、再び穏やかな風が吹き始めた。


「勇一さん。あなたは一人じゃありません」


 凛の言葉に、勇一の体が僅かに震えた。


「家族や友人、そして私たち医療者もあなたを支えています」


 その瞬間、砂漠の風景が変化し始めた。砂の中から、小さな芽が出始めたのだ。それは勇一の大切な人々との思い出や絆を表すかのように、次々と伸びていった。


 勇一の表情が、少しずつ和らいでいく。怒りと恐怖で歪んでいた顔に、穏やかな光が差し込んでいった。砂嵐が完全に収まり、砂漠に穏やかな風が吹き始めた。その風は、勇一の髪を優しく撫で、彼の存在をより確かなものにしていくようだった。


「ありがとう……。俺、もう少し頑張ってみるよ」


 勇一の声には、新たな決意が感じられた。彼の姿が少しずつ輝きを増し、より鮮明になっていく。砂漠には、小さな花が咲き始めていた。


 凛は満足げに微笑んだ。その瞬間、彼女の意識が現実世界へと引き戻されていった。砂漠の光景が徐々に薄れ、診察室の姿が浮かび上がってくる。最後に見た勇一の穏やかな表情が、凛の心に深く刻まれていた。


 目を開けると、診察室の光景が広がっていた。勇一もまた、ゆっくりと目を開けた。


「どうでしたか、鷹山さん?」


 勇一の顔に、これまでとは違う表情が浮かんだ。怒りの仮面が剥がれ落ち、そこには脆さと温かみが混ざった複雑な表情があった。


「先生……俺、みんなに酷いことを言ってしまった」


 その言葉には、後悔の色が滲んでいた。凛は優しく微笑んだ。


「大丈夫です。まだ修復する時間はたくさんありますよ」


 勇一はゆっくりと頷いた。その仕草には、これまでになかった柔らかさが感じられた。


「俺、家族に謝りたい。そして……これからのことを、一緒に考えていきたい」


 凛は満足げに頷いた。


「それはとても素晴らしい決断です。鷹山さん、これからは怒りの裏にある不安や恐れを、少しずつ家族と分かち合っていってください。そうすることで、きっと新しい形の絆が生まれるはずです」


 勇一は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、先生。俺……これからは自分の病気とも、もう少し向き合ってみます」


 診察室の窓から差し込む陽光が、二人の姿を優しく包み込んだ。それは、勇一の新たな人生の一歩を祝福しているかのようだった。


 勇一が退室した後、紫苑が凛に近づいてきた。


「凛先生、本当にお疲れ様でした。鷹山さんの様子が、見違えるように変わりましたね」


 凛は紫苑に向かって安堵の笑みを浮かべた。


「ありがとう、紫苑。確かに難しいケースだったわ。でも、勇一さんの中にある受容と変化への勇気が、最後には彼を救ったのよ」


「そうですね。でも、凛先生。治療中、一瞬だけ先生の表情が苦しそうに見えました。大丈夫でしたか?」


 凛は少し驚いた様子で紫苑を見つめた。自分の動揺が紫苑に伝わっていたとは思わなかった。


「さすが紫苑ね。実は……勇一さんの記憶が失われていく様子を目の当たりにして……いえ、これはもちろん比喩よ、実際に目にしたわけじゃないわ……でも彼の様子を見て、私自身も恐怖を感じたの。人の記憶、つまりアイデンティティが少しずつ崩れていく過程は、想像以上に衝撃的だったわ……」


 紫苑は凛の腕に優しく手を置いた。


「凛先生、時には自分の感情と向き合うことも大切です。患者さんの心に寄り添うあまり、自分を見失わないでくださいね」


 凛は紫苑の言葉に深く頷いた。


「ありがとう、紫苑。あなたの存在が、私の心の支えになっているわ」


 二人は窓の外を見やりながら、静かに言葉を交わした。


「記憶は失われても、その人の本質は変わらない。勇一さんから、私たちも大切なことを学んだわね」


「はい。そして、どんな状況でも、人は新しい絆を築く力を持っているんですね」


 診察室には、新たな気づきと希望の光が満ちていた。凛は深呼吸をし、ロレアルのリップクリームで唇を潤した。それは、次の患者を迎える準備であると同時に、自分自身を大切にする小さな儀式でもあった。


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