第32話:「生きていない男の物語」
蒼井凛は診察室の本棚の前に立ち、背表紙を眺めていた。秋の深まりを感じさせる柔らかな陽光が、彼女の白衣を優しく照らしている。凛は、母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスを無意識に指で弄びながら、精神医学の専門書を取り出した。
静かにドアが開き、美園紫苑が部屋に入ってきた。
「凛先生、次の患者さんの資料です。少し……特殊なケースかもしれません」
凛は紫苑の方を向き、彼女の表情を慎重に観察した。紫苑の目元には、疲れを隠すようにコンシーラーが丁寧に塗られている。
「そう? どんな症例なの?」
凛は本を閉じ、紫苑から資料を受け取った。二人は診察室の中央にある小さなテーブルに向かい、互いに向かい合って座った。
「神田悠人さん、28歳男性。主訴は……」
紫苑は言葉を詰まらせた。
「主訴は?」
凛は眉をひそめ、資料を開いた。そこには驚くべき内容が記されていた。
「コタール症候群……?」
紫苑は静かに頷いた。彼女の首元で、デリケートなゴールドのチェーンが揺れる。
「はい。『自分はすでに死んでいる』『内臓がない』という妄想を訴えています。日常生活が完全に破綻しているようです」
凛は資料を素早く読み進めた。
「脳のMRI、血液検査、すべて正常……。精神疾患の既往歴もない。これは本当に珍しいわね」
紫苑は真剣な表情で凛を見つめた。その瞳には、今回の症例に対する強い懸念が浮かんでいた。
「凛先生、この患者さん、どのように接すればいいのでしょうか」
凛は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「通常のアプローチでは難しいでしょうね。彼の現実感覚を否定せず、かといって妄想を強化しすぎないバランスが必要よ」
紫苑は凛の言葉に、強い関心を示した。
「具体的には、どのように?」
凛は立ち上がり、窓際に歩み寄った。外では紅葉が始まっている。
「彼の『死の世界』に一旦入り込む必要があるわ。そこから、少しずつ生の感覚を呼び覚ましていく。でも、紫苑。これは危険を伴う可能性もあるの」
紫苑は凛の背中を見つめ、その言葉の重みを感じ取った。
「先生、私にできることはありますか?」
凛はゆっくりと振り返り、紫苑と目を合わせた。
「ええ、あるわ。私が悠人さんの心の中に入っている間、現実世界との繋がりを保つ役割をお願いしたいの。もし私が現実感覚を失いそうになったら、すぐに引き戻して」
紫苑は真剣な表情で頷いた。
「分かりました。先生を必ず守ります」
その瞬間、診察室のドアがノックされた。
「先生、神田さんが到着しました」
看護師の声に、凛と紫苑は顔を見合わせた。
「紫苑、準備はいい?」
「はい、凛先生」
凛は深呼吸をし、ドアに向かった。そして、神田悠人を迎え入れる準備をした。彼女の表情には、これから始まる未知の治療への覚悟が浮かんでいた。
ドアが開き、神田悠人が部屋に入ってきた。彼の姿は、まるで霧の中から現れたかのように不確かだった。肌は青白く、目は虚ろで、動きはぎこちない。スーツは高級ブランドのものだが、まるで骨董品のように古びて見える。
「神田さん、こんにちは。私が担当医の蒼井凛です」
凛は温かい微笑みを浮かべたが、悠人の表情は変わらなかった。
「なぜ、死体に話しかけるのですか?」
その言葉に、凛は一瞬たじろいだが、すぐに冷静さを取り戻した。
「あなたにとって、それが現実なのですね。その経験について、もう少し詳しく聞かせていただけますか?」
凛は悠人をソファに案内し、自身も向かいに座った。紫苑は静かに部屋の隅に控えた。
悠人はしばらく沈黙し、やがてゆっくりと口を開いた。
「3ヶ月前、私は突然死にました。心臓が止まり、血液が凝固し、内臓が腐敗していく……。でも、意識だけが残された。これは地獄なのでしょうか? それとも、罰なのでしょうか?」
凛は悠人の言葉を丁寧に受け止めながら、彼の仕草を観察した。悠人の指先が無意識に胸元を掻くのが見えた。
「神田さん、その体験はあなたにとってとても強烈なものだったのですね。死を感じた瞬間のことを、もう少し詳しく教えていただけますか?」
悠人は凛をじっと見つめた。その目に、わずかな光が宿った。
「誰も……誰も信じてくれなかった。みんな、私が生きているふりをしているのを見て見ぬふりをしている。でも、先生は……私の言葉を聞いてくれている」
凛は優しく微笑んだ。
「あなたの経験は、あなたにとって真実です。それを否定するつもりはありません。ただ、その経験の本質を一緒に探ってみたいのです。よろしいでしょうか?」
悠人は少し戸惑ったが、やがて小さく頷いた。
「神田さん、特別な方法で、あなたの内面世界を一緒に探索してみませんか? そこで、あなたの感じている現実の本質が見えてくるかもしれません」
悠人は驚いたように凛を見つめた。
「死者の世界に……生きている人間が入れるのですか?」
「はい、私にはその力があります。ただし、危険が伴う可能性もあります。それでも構いませんか?」
悠人は静かに頷いた。
「お願いします。どうせ死んでいる私には、もう失うものなどないのですから」
凛は紫苑に目配せし、準備を整えた。
「では、目を閉じて、深呼吸をしてください。私があなたの手を取ります」
悠人は言われた通りに目を閉じ、凛も同様にした。凛が悠人の手を握ると、その冷たさに驚いた。しかし、それ以上に驚いたのは、その手から伝わってくる生命の鼓動だった。
凛の意識が徐々に沈んでいく。彼女は、これから目にする世界への緊張と、悠人を救い出すという決意を胸に秘めていた。
そして、二人の意識は悠人の内面世界へと沈んでいった。
凛が目を開けると、そこは荒涼とした灰色の風景が広がっていた。空には雲一つなく、地面には枯れた草木が点在している。遠くには朽ちかけた建物の影が見える。空気は重く、息苦しさを感じる。
「ここが……私の世界です」
悠人の声が、どこからともなく響いてきた。凛は周囲を見回したが、彼の姿は見当たらない。
「神田さん? どこにいるの?」
「僕はここにいます。でも、姿はありません。死んだ人間に姿なんてないのです」
凛は深呼吸をし、心を落ち着かせた。
「紫苑、聞こえる?」
「はい、凛先生。バイタルは安定しています。でも、脳波に少し乱れが見られます」
凛は紫苑の声に安堵しながら、ゆっくりと歩き始めた。
「神田さん、この世界について教えてくれますか?」
「ここは死後の世界です。生命も、色彩も、希望もない。ただ、永遠に続く虚無があるだけ」
凛は足元に咲いている一輪の花に目をとめた。それは枯れかけているが、かすかに生命の気配を感じる。
「でも、ここに花が咲いているわ」
「それは過去の記憶の残滓です。もうすぐ消えてしまうでしょう」
凛はその花に近づき、そっと触れた。すると、花びらが少し色を取り戻した。
「神田さん、この花、少し生き返ったみたいよ」
突然、地面が揺れ始めた。空気が重くなり、息苦しさが増す。
「だめだ! そんなことをしては!」
悠人の声が苦しげに響く。
「どうして? 生命の兆しがあるのよ」
「違う! 僕はもう死んでいるんだ。生きている振りをするのはもうたくさんだ!」
凛は慌てて花から手を離した。揺れは収まったが、空気の重さは残ったままだ。
「神田さん、あなたはなぜ自分が死んでいると思うの?」
しばらくの沈黙の後、悠人の声が低く響いた。
「3ヶ月前、僕は大きな失敗をした。会社のプロジェクトを台無しにしてしまったんです。数十億円の損失……。その日から、僕の中で何かが死んだ。周りの人の目、冷たい視線、後ろ指を指される感覚……。生きているのが辛くて、死んでしまえばいいと思った。そしたら、本当に死んでしまった」
凛は悠人の言葉に深い共感を覚えた。彼の感じる「死」は、社会的な死、自己価値の喪失を象徴しているのだと理解した。
「神田さん、あなたの感じていることはよく分かります。でも、それは本当の意味での死ではないのよ」
「どういう意味ですか?」
凛は再び花に近づき、そっと手を伸ばした。
「あなたの中にある生命力を、一緒に見てみませんか?」
凛が花に触れると、今度は周囲の地面から、かすかな緑の芽が出始めた。
「これは……」
悠人の声に驚きの色が混じる。
「そう、これがあなたの中に眠っている生命力よ。失敗は確かに辛いものです。でも、それであなたの人生が終わるわけじゃない。新しい芽を出す力が、まだあなたの中にあるのよ」
突然、凛の目の前に、半透明の悠人の姿が現れた。
「でも、僕はもう……」
「生きているのよ、神田さん。ただ、傷ついて、怖くなっているだけ。でも、一緒に前を向いていきましょう」
凛は優しく微笑み、悠人に手を差し伸べた。悠人は躊躇したが、やがてゆっくりとその手を取った。
その瞬間、周囲の風景が変化し始めた。灰色だった空に、うっすらと青みが差し、地面には緑が広がっていく。
「これが……僕の世界?」
「そう、あなたの本当の姿よ。生きる力に満ちた世界」
悠人の姿が少しずつ実体化していく。彼の目に、初めて生気が宿った。
「先生……ありがとうございます」
凛は微笑んだ。
「さあ、現実の世界に戻りましょう。そこで、新しい人生を始めるのよ」
二人の意識が、ゆっくりと現実世界へと浮上していく。
凛と悠人が目を開けると、診察室の柔らかな光が二人を包み込んでいた。紫苑が心配そうな表情で近づいてきた。
「凛先生、神田さん、大丈夫でしたか?」
凛はゆっくりと身を起こし、深呼吸をした。シャネルのパフュームの香りが、彼女を現実世界に引き戻す。
「大丈夫よ、紫苑。ありがとう」
凛は隣に座る悠人を見た。彼の頬にはわずかに血色が戻り、目には生気が宿っていた。
「神田さん、どうですか?」
悠人は自分の手をじっと見つめ、それから部屋を見回した。彼の目に驚きの色が浮かぶ。
「僕は……生きている?」
凛は優しく微笑んだ。
「ええ、そうよ。あなたはずっと生きていたのよ」
悠人の目に涙が浮かんだ。それは、長い間失っていた感情の表れだった。
「でも、まだ……まだ自分が本当に生きているという実感が……」
凛は理解を示すように頷いた。
「それは当然のことよ。長い間、死んでいると思い込んでいたのですから。これからゆっくりと、生きている感覚を取り戻していきましょう」
紫苑が静かに口を開いた。
「神田さん、よろしければお茶をお持ちしましょうか? 温かい緑茶が、体を温めてくれると思います」
悠人は少し戸惑ったが、小さく頷いた。
「はい……お願いします」
紫苑が部屋を出て行くと、凛は悠人にゆっくりと語りかけた。
「神田さん、これからの治療は、あなたの感覚を少しずつ取り戻していくことが中心になります。食べること、触れること、感じること……。それらの体験を通じて、生きていることを実感していきましょう」
悠人は真剣な表情で凛の言葉を聞いていた。
「先生、僕は……本当に生きていけるでしょうか?」
凛は悠人の肩に優しく手を置いた。
「もちろんよ。あなたの中には、強い生命力が眠っています。それを少しずつ呼び覚ましていきましょう」
紫苑が緑茶を持って戻ってきた。湯気が立ち上る茶碗を、悠人に差し出す。
「どうぞ、神田さん」
悠人は恐る恐る茶碗を受け取った。その温もりに、彼の目が少し見開いた。
「温かい……」
「そう、それがあなたの感覚よ。生きているからこそ感じられるものです」
悠人は慎重に一口飲んだ。その瞬間、彼の表情が和らいだ。
「美味しい……。こんな感覚、忘れていました」
凛は満足げに微笑んだ。
「これが第一歩です、神田さん。これからは毎日、こうした小さな感覚を大切にしていきましょう」
悠人は茶碗を両手で包み込むように持ち、その温もりを全身で感じているようだった。
「先生、僕は……頑張ってみます」
凛は頷いた。
「一緒に頑張りましょう。あなたは一人じゃありません」
診察室の窓から差し込む陽光が、三人を優しく包み込んだ。それは、悠人の新たな人生の始まりを告げるかのようだった。
紫苑が凛に近づき、小声で話しかけた。
「凛先生、素晴らしい治療でした」
凛は紫苑を見つめ、複雑な表情を浮かべた。
「ありがとう、紫苑。でも、まだ始まったばかりよ。これからが本当の挑戦になるわ」
凛は窓の外を見た。紅葉した木々が風に揺れている。その姿が、まるで人生の移ろいを象徴しているかのように感じられた。
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